第1話 成年後見制度 (宅地建物取引士 奈々美の奮闘記)

「おはようございます」
 ここは東京都八王子市 勤務する『不動産ステーション』に出社した若葉奈々美は、いつものように元気よく挨拶する。けれどオフィス内は静かで、なんの返事も聞こえてこない。まだ誰も出社していなかったのだ。


「今日も一番!これで3ヶ月、記録続行中」
 自分のデスクに落ち着くと、バッグから水筒を取り出し、朝用に淹れたミルクティを飲む。パソコンを開いたら仕事モードになってしまうから、この時間はスマホ片手にニュースを読むことにしている。
 ニュースを読むのは、仕事にも役立つからだ。それは社長の泉田啓一に教わった。来店したお客様との会話の中にニュースの話題がでたときに、なにも知らないというのは恥ずかしい。一般常識と日々のニュースを学ぶのも、宅建の仕事だと社長は言う。


 宅建、正式名称は宅地建物取引士。奈々美はその宅地建物取引士の資格が取りたくて、この会社に入ったのだ。
『社員は全員、宅地建物取引士の資格を持っています。入社と同時に、あなたの資格習得の応援をいたします』
 求人広告に書かれていたとおり、奈々美は入社から半年後、見事に宅地建物取引士の資格を取得した。
 8人いる社員のうち、経理を除く全員が宅建の資格保有者だ。その中で奈々美が一番若く、当然一番下っ端だった。
「おっ、早いな」
 社長の泉田が出社してきた。奈々美は立ち上がり、ぺこりと頭を下げて挨拶した。


「おはようございます」
 その後に言いたいことがある。けれどなかなか言えない。簡単なことだ。そろそろ私にも売買担当させてくださいと言いたい。
 せっかく宅建の資格を取ったのに、まだ不動産売買の手続きを自分で行ったことがない。いつも先輩たちのアシスタントばかりだ。
 物件を案内するとき、奈々美のような若い女性スタッフがいると、お客もリラックスするというのはわかる。けれど契約となると、ベテラン社員や社長のほうばかりお客が見るのはわかりたくない。
 たしかに社長は少し強面で、いかにも頼りになりそうだ。不動産のことなら、どんなトラブルにも対処しますといった安心感を与えられる。
 40代の社長と20代の奈々美では、お客の信頼度はまるで違う。
 私も資格持ってます。最後まで私に任せてはもらえないですか。そう言いたいけれど、いつも言えずに、渡された書類をコピーするだけだった。
「おはようございまーす」
 ベテラン社員の堂島が、しわくちゃのスポーツ新聞を手に出社してくる。そしてすぐに社長と、昨日の野球の試合の話を始めた。
 今朝もまた言えなかった。奈々美はがっくりと椅子に座り込み、パソコンを起動させる。モニターには不満そうな自分の顔が映っていた。


 奈々美が働く『不動産ステーション』があるのは、東京都八王子市、都心から少し外れた街の駅前だ。真新しいビルが建ち並び、JR八王子駅まで徒歩15分圏内に新築マンションが数軒ある。かと思えば、古くからある家がそのままになっていて、空き家対策が必要だと相談されたりする地域だった。

「いらっしゃいませ」
 遠慮がちに入って来た女性を見つけ、奈々美は素早く立ち上がる。最初に接客するのは、いつでも奈々美の役割だ。
「どのようなご相談でしょうか?」
 まずは笑顔で接客だ。見たところ普通の主婦で、50代といったところだろう。こういう女性が不動産会社に1人でくることはめったにない。緊張しているはずだ。
 リラックスしてもらうには、笑顔と穏やかな語りかけ、これしかない。
「こちらにアンケート用紙がございます。よろしければ記入していただけますでしょうか」

 ボールペンと用紙を渡したが、女性は書き込む前にいきなり話し出した。
「あのう、実家を売りたいのですけれど」
「ご自宅ですか?」
「いえ、母の住まいです。認知症が進んだので、介護してもらえる老人ホームに母を入れたくて」
 これまで1人でいろいろと考えてきたのだろうか。言いたかったことを口にしてほっとしたのか、女性はボールペンを手にしてアンケートを書き始めた。
「これ、母の名前を書くんですか?」
「いえ、お客様のお名前でよろしいですよ。お母様のお名前と住所もいただけますと助かります。こちらに書いていただけますか」
 家の売買、ああ、自分に任せて欲しい。そう思いながら、奈々美は田辺洋子という女性が書き終えたアンケート用紙を持って、社長の席に向かった。
 どうせ社長がデスクを離れ、お客のもとに行くのだろう。そこで奈々美は2人に飲み物はなにがいいか訊ね、おいしいお茶かコーヒーを淹れるだけだ。
「ご実家、売りたいそうです」
「ふーん……実家ってことは、真田良子さんの住所はここで、あっ、田辺さん本人は静岡に住んでるのか」


 アンケートを見ながら、社長は独り言のように呟く。
「えっ、実家、真田さんちってあそこなの? いい場所だな。前から、あの近所に土地ないか聞かれてたんだよ」
 社長は乗り気になっている。自分の出番はもうないなと思ったら、社長は奈々美を見て言ってきた。
「そろそろ担当したいんだろ?若葉に任せるよ」
「え、えええ、いいんですか?」
「若葉は年寄り受けいいからな。爺さんたちのアイドルだし」
 近隣でアパートを経営している年寄りには、確かに人気があるが、そんな理由でこの優良物件の売買を任せられてだいじょうぶだろうか。


「社長、本当に私でいいんですか?」
「困ったら助けてやるから。やってみろ」
「あ、ありがとうございます。がんばりますっ!」
 ついにやった。物件の売買を担当することになったのだ。
 駅から徒歩で20分圏内。土地は約60坪で、建物は築50年の住宅だ。この辺りの不動産会社だったら、喜んで扱いたがる物件だった。
 みんなが満足する結果にしたい。奈々美は大きく飛び跳ねたいのをがまんして、小さくピョンとだけ飛んでみた。


 物件を確認するために、田辺夫人とともに実家の真田家を訪れることになった。駅前からゆっくり歩いて20分、車なら5分ていどの好立地だ。
「お若いのに不動産の資格をお持ちなの? すごいわね」
 田辺夫人は感心したように、社名がプリントされた軽自動車を運転する奈々美に言う。
「どうしてこんなお仕事選ばれたの? 若葉さんだったら、他になんでもできそうなのに」
「子供の頃からの夢だったんです。幼稚園の頃、みんながパン屋さんやお花屋さんになりたいって言ってるのに、私はお家屋さんって言ってました」
 奈々美が幼稚園に入る少し前、両親は新築の家を建てた。その図面のコピーをもらって、人形を置いて遊んでいたのだ。そのうち自分で変な図面を書いて、いろいろな家を考え出すようになった。
「建築士になろうかなとも思ったんですけど、それより販売のほうが楽しそうに思えたので、この会社に就職しました」
 両親には反対された。不動産業界なんて男性優位の社会だから、おまえみたいな小娘がいても、一生お茶出し事務員で終わりだと父に言われている。
 少なくとも今日は、お茶出しだけの仕事をしていない。大切なお客様が売りたいと言っている物件を、見にやってきたのだ。


 訪れた家の庭は、かなり荒れた様子だ。雑草が茂り、庭木の枝は伸び放題になっている。唯一駐車場周辺だけは、雑草がなぎ倒されていた。
「荒れてますでしょ。本当はもっと早くに母を引き取りたかったんですけど、うちは酒屋なもんですから、一日中うるさくてね。住まいは狭いし、息子が三人もいますから、母は私や夫に遠慮して、ずっと自分でがんばっていたんです」
 酒屋に嫁いだ娘には甘えず、なにかも一人でやっていたのだろうが、それもついに限界がきたようだ。家の中も荒れていて、長い間掃除もしていないのがわかる。
「あら、お客様? あら、ごめんなさいね、娘はまだ学校から戻ってませんの。あなた、ヘルパーさん、このお嬢さんにお茶さしあげて」
 日当たりのいい居間に案内された途端、一人用のソファに座り込んだ老婦人が、奈々美を見てにこやかに話しかけてくる。

「ごめんなさいね。ときどき私のこと、ヘルパーさんと間違えるんです」
 田辺夫人は悲しそうに言う。老婦人の今の脳内では、娘はまだ嫁ぐ前の若い姿のままなのだろう。
「ヘルパーサン、オチャサシアゲテ。ヘルパーサン」
 甲高い声に驚いて、奈々美はびくっと体を震わせる。すると老婦人は手を叩き、青みがかった灰色の羽を持つ、大きな鳥を膝掛けの中から取りだした。
「ピーちゃん、洋子ちゃんのお友だちよ。脅かさないでね」
「オチャサシアゲテ、ヘルパーサン」


 話の内容がわかっているのか、鳥は田辺夫人に向かって話しかけている。
「ヨウムっていうんですよ。母ともう20年いっしょに暮らしています。選んだ老人ホームはペットがオッケーでね、このピーちゃんを連れて行けるんです」
「それはいいですね」
「ええ、母が老人ホームを嫌がっていたのは、ピーちゃんのことがあったからなんです。連れて行けるとなったら、喜んでホームに行くと言ってくれました」
 ペットを連れて行くからには、豪華な個室のある老人ホームなのだろう。奈々美はまだよく知らないが、そういった施設に入るのに準備金がかかりそうだというのは想像出来る。


「ごめんなさいね。手が痛くて、お茶を淹れられなくて」
 老婦人は曲がった右手を示した。
「リウマチがひどくなりましたの。そりゃあひどい病気でね。山田さんはどこがお悪いの?」
「えっ……ああ、わたしは、足がむくみやすいかな……」
「そうなの、山田さん」
 どうやら奈々美は、老婦人の脳内では病院仲間の山田さんになってしまったらしい。
 にこにこと笑顔で話す老婦人は、認知症になっていてもどこか可愛げのあるお婆ちゃんだ。娘の田辺夫人が、この母親に幸せな老後を過ごさせたいと思う気持ちが、奈々美にもなんとなくだが伝わってきた。


「好物件です、社長」
 社に戻った奈々美は、田辺夫人から借りてきた古い登記簿を見せた。
「建物はもう資産価値がないとわかってらして、評価してくれなくていいと言ってます。それだけじゃなくてですね、建物を壊すお金は払えないから、その分、値引きするとまで言ってくれてるんですよ」
 客によっては倒壊寸前のぼろ家でも、資産価値があるから値を付けろと言ってくる。なのに田辺母娘は、更地にする費用分を引いてもいいと言っているのだ。
「若葉を担当させて正解だったな。おまえのふにゃふにゃした感じが、年寄りには受けるんだろう。話がごじれなくてよかった」
 ふにゃふにゃとはどういうイメージだ。奈々美の脳内では、コンニャクになった自分が踊っている。
「コンニャクって、お年寄りは好きなんですかね……」
 思わず呟いてしまってから、奈々美は社長が不思議そうな顔をして、自分を見ていることに気付く。
「あ、すいません。登記簿のコピーとって、すぐに返しに伺うんですけど、手土産とか自分持ちですか?」

『不動産ステーション』では、顧客に持っていく菓子折は決まっている。若い人には焼き菓子セット、お年寄りにはあられセットだ。奈々美は頼まれてよく買いにいくが、自分の顧客のために買うのは初めてだった。
「いいよ、給料から引いておくから」
 さらっと言われて、奈々美の口元は引き攣る。営業の道はきびしい。菓子折が大量に必要になったら、それだけ給料は目減りだ。
「冗談だよ。じょーだん、引き攣ってるぞ、口」
「よかった。大量に菓子折配ることになったら、どうしようと思ってました」
 もっともそんなに大量に菓子折が必要になるほど、奈々美が物件を売れるとは限らない。もしかしたら一生、そんなことはないかもしれないのだ。
「お年寄りにあられセットって、あれ、変えませんか?歯の悪いお年寄りには、柔らかいお菓子のほうがよくないですか?」

「んっ、ああ、なら好きなの買っていけ」
「よかった」
 いつも疑問に思っていたことが、今日はすんなり解決する。あの可愛いお婆さんとヨウムには、柔らかな焼き菓子のほうがいいに決まっている。
「それと司法書士の塩崎先生に、予約いれとけよ」
「トラブルになりそうなものは、まだなにもありませんけど。契約は先だし」
「成年後見人だよ。司法書士、必要になるだろ」
「……?」
 社長の口にした言葉の意味が、奈々美にはわからなかった。宅健のテスト勉強をしていたときには、わかっていたはずだ。なのにきれいに忘れてしまっている。
「コピー、とってきます」
 奈々美は急いで社長の前を離れた。パソコン、スマホ、どちらでもいい。忘れてしまった言葉の意味を、再度確認したかったのだ。


『成年後見人制度』

 成年後見制度とは、精神上の障害である知的障害、精神障害、認知症などにより判断能力が十分でない人が、生活上の不利益を被らないように、援助する人を付ける制度です。

 成年後見人になれるのは、配偶者、子供、兄弟姉妹などの身内ですが、第三者の司法書士などを指名することも可能です。

 成年後見人に求められるのは、財産の管理です。認知症などで判断能力が衰えた場合、法定後見制度が利用できます。

 自宅を売却して介護施設に入所するような場合は、家庭裁判所の承認を得て、成年後見人が手続きをすることが可能です。


「忘れてた……」
 パソコンの力を借りて、記憶の底から言葉の意味を探り出す。
 成年後見人、お年寄りを守る素晴らしい制度だ。いくら仲良し母娘だとしても、不動産を売却して得たお金がもとで、母親を騙したなどと疑われてもいけない。
「田辺さんを成年後見人に指名すればいいのね」
 成年後見人が決まれば、すぐに売買にもっていける。
 社長は買い手に心当たりがあるという。そうなればその買い手のところを訪れ、物件の説明をして売り込めばいいだけだ。
 あとは土地建物の売買関係書類を用意して、署名、捺印、それで終わりとなるはずだったが、これは少し時間がかかりそうだ。
 田辺夫人にも、成年後見人のことを詳しく説明しなければいけない。話していると、認知症とは思えないほど普通に話すお婆さんだが、内容はかなり混乱している。そんな人と直接、不動産の売買契約をしてはいけないのだ。

「塩崎先生には、いつがいいのか聞かなくちゃ」
 家庭裁判所に成年後見人の申し込みをすれば、田辺夫人があの家を売ってもなんの問題もない。
 奈々美は塩崎司法書士事務所の電話番号を、デスクに置いたままの手帳から探し始めた。
「忘れてたんだろぅ」
 背後で笑っているような社長の声がした。奈々美は慌ててパソコンの画面を切り替える。
「いえ、ははは、いや、ま、その」
「認知症のお年寄りの土地を、勝手に売ったりしたら、うちが悪徳不動産になっちまうだろ。少し時間はかかっても、丁寧な仕事をしろ。田辺さんが納得するように、詳しく説明するんだぞ、いいな」
「はい。菓子折は、マドレーヌとクッキーの詰め合わせでいいですか?」
「……いいよ。最低ランクより、1つ上な」
 よかった。あんな硬そうなあられセットより、柔らかいマドレーヌのほうがあのお婆さんには似合ってると、奈々美は勝手に決めていた。


できるだけ早くあの家と土地を売ってあげたいが、成年後見人の手続きが終わるまで2ヶ月近くかかる。その間、ずっとあの家に田辺夫人がいることはできない。静岡の家では、酒屋を営むご主人と三人の息子が、田辺夫人の帰りを待っているのだ。
 田辺夫人がいるうちに、家庭裁判所に行く必要がある。司法書士の塩崎と打ち合わせをすすめているときに、気の早い買い手が物件を見たいと言ってきた。
 買いたがっているのは眼科医の塚本だ。奈々美は買い手の塚本が運転するレクサスに乗って、連日通っているお婆さんの家に向かっている。
「近所に眼科のクリニックがないものですから、住民のみなさん喜ばれると思います」
 近隣に歯医者は4軒もあるのに、眼科と耳鼻科はない。この眼科医はそれがわかっていて、この辺りの土地を探していたのだろう。
「住宅街で、静かなところだね。あ、有料パーキングがあるな。広い駐車場は作れないだろうから、近くにパーキングあるのがポイントだよ」
 現在は大学病院で勤務医をしている塚本は、自分のクリニックが開けるというので興奮気味だ。
「そうですね。反対側にもコインパーキングがあります。6台で少ないんですけど、他には、あ、止まってください。あそこです。あのお宅です」
 50年前の建ったばかりの頃は、最新デザインの洒落た家だったのだろう。それがここ数年手入れもされていないから、ホラー映画のロケで使えそうな雰囲気になっている。
「上物の解体代は、売値から引いてくださるそうですよ。業者は当社で手配いたしますのですぐに解体しますから、待たずに建築できると思います」
 売り手が飛び込んできてくれて、買い手もすぐにやってくる。こんな好条件の物件はそうはない。駐車場に車を入れる間、奈々美は塚本の気が変わらないでいてくれるといいと願っていた。
 車から降りると、居間の窓が大きく開いていて、お婆さんが揺り椅子に座っているのが見えた。
「あら、山田さん。ご主人とお買い物?」
 にこやかに手を振っている。不動産屋さんの若葉さんと、何度も田辺夫人が教えているのだが、すぐに山田さんになってしまう。どうやら山田さんというのは、何年も前に近所に住んでいた仲良しの奥さんだったらしい。

「駅前にスーパーできましたでしょう?行ってらしたの?」
「は、はい」
 奈々美は笑顔で頷くと、塚本の側に寄って小声で囁いた。
「すいません。わたしのこと、山田さんちの奥さんと間違えてるみたいなんで」
「いいですよ。僕は間違われても、気にしませんから」
 そこで塚本はお婆さんに向かい、手を振って言った。
「今日は牛乳が特売でしたよ」
「あら、そうでしたの。ヘルパーさん、牛乳の特売ですってよ。買いにいかなくちゃ」
 田辺夫人に向かって、お婆さんは嬉しそうに言っている。
「あの方が所有者なので、売買に少しお時間いただくことなりますが、その間に当社が責任もって更地化をすすめますので」
「急いでないからだいじょうぶと言いたいところだけど、先に他の眼科が開業したら嫌だな」
「調べます。しっかり近隣リサーチして、情報が入り次第お知らせしますから」
 これが奈々美の初売買なのだ。売れ残りの不良物件にはしたくないから、ぜひ塚本に買って欲しい。
「そうだね。ここに僕のクリニックが建つまで、情報いれて欲しいな」
「はい、送ります。ご要望あれば、耳鼻科と歯科医と動物病院も……あ、すいません、必要なかったですね」
 思わず動物病院と言ってしまったのは、お婆さんの肩に乗ったピーちゃんの姿が見えたからだ。
「キライヨー、カエレー、カエレー、キライヨー」
 突然、ピーちゃんが騒ぎ出す。
「どうやら僕は嫌われたらしいな」
 塚本が困ったような顔をする。奈々美は焦った。
「普段はとてもいい子なんですよ。どうしたんでしょ」
 おろおろと奈々美は辺りを見回す。近所のやんちゃ猫でもいて、ピーちゃんが怒っているのかと思ったのだ。
 道路に出ると、止まっていた黒いワゴン車が目に入った。エンジンをかけたまま停車していたが、奈々美の姿が見えた途端にゆっくりと走り出す。
「なんだろ……」
 原因はあの車ではないか、そう思いたくなるほど、不審な動きだった。


ピーちゃんに嫌われたと勘違いしていた塚本だが、あの家を買う気にはなっていた。問題は家庭裁判所の成年後見人の審査が、いつ終わるかということだ。
「入居希望の老人ホーム、人気があるので、ぐずぐずしていたら満室になっちゃうそうです。立て替えて入居金を払う余裕は、田辺さんちにはないみたいで……」
 奈々美は大きくため息を漏らす。明後日には司法書士の塩崎と共に、家庭裁判所を訪れる予定だ。奈々美に同行する義務はないのだが、車で送ると約束していた。
「最低でも審査とおるのが2ヶ月って、そんなに待てないですよね」
 解体業者のパンフレットを社長から受け取りながら、奈々美は力なく訴える。
「なにかいい方法、ないですか、社長」
「いいか、俺たちはあくまでも不動産屋だ。家や土地の売買に関しては、あらゆるサービスを繰り出せるが、家庭の事情ってやつに深入りはできないんだよ」
「それはそうですけど……」
「入居予定のホームに連絡して、入居権利金の支払い、待ってもらえばいいじゃないか。買い手も決まってるし、支払いは確約てきますって、それぐらい俺たち業者が言うのは問題ない」
「そうですね。それじゃあ、来週、静岡に出張していいですか?」
「……経費で?」
 社長にじっと見つめられ、奈々美は口を尖らせる。
「田辺さん、来週にはお婆さんを連れて、家に戻られるそうなんです」
「新幹線使うの?」
「車、使っていいなら、運転していきますよ」
「経費は大切に使え。お土産は自費な。俺のは無添加高級わさび漬けよろしく」
 こっそり経費で落としたい、お土産だけで高速代よりも高くなりそうだ。
 そこでスマホがピヨピヨと鳴り出した。
「はい、若葉ですが……」
 静岡に行くなら、お土産は帰りに海老名のインターでもいいかなと考えていた奈々美の頭に、空から大量の高級わさび漬けが振ってきたような、衝撃が襲ってきた。
「そんな、はい、今すぐいきます」
 想定外のことが起きたとき、冷静に対処できるのが大人というものだ。ここで奈々美が弱気な態度をとったら、田辺夫人も不安になってしまうだろう。
「トラブル発生なので、行ってきます」
「一人でだいじょうぶか?」
「だいじょうぶ、です、たぶん……」
 そりゃあ社長が同行してくれれば心強い。けれどこれは奈々美が受けた仕事だ。できるなら一人でがんばりたいのだ。


 やはりあの車が、ピーちゃんの暴言の元だったようだ。今日2度目の訪問となるお婆さんの家へつくと、そこには昼に見かけたあの黒いワゴン車が駐められていて、ピーちゃんの叫び声が外まで聞こえていた。
「カエレーッ、カエレーッ、キライ、キライ、カエレーッ」
 あれはお婆さんの心の叫びだ。子供のように可愛がられているピーちゃんは、お婆さんを守るために叫んでいる。そうとしか思えない。
「失礼します。私、『不動産ステーション』の若葉と申しますが」
 初対面の男性相手に、奈々美は名刺を渡す。田辺夫人が助けを求めてきたのは、いきなり訪れたこの兄の真田のせいだった。いかつい顔をした初老の男は、奈々美を見て、ふんっと鼻を鳴らして笑う。
「不動産屋に任せてるって言ってたが、こんなねぇちゃんかよ。事務員なんか寄越しやがって、ばかにされたもんだな」
「あの、宅健の資格ありますので……」
「資格があったって、なんの役にも立ってねぇだろ。母さんはぼけてるからいいように騙せても、俺が来たからにはそうはいかねぇぞ」
「はっ?」
 どうして田辺夫人は、最初からこの兄のことを話してくれなかったのだろう。できることなら、こんな兄は身内にいて欲しくなかったのかもしれないが、奈々美には教えておいて欲しかった。
「この女はな、とんでもない嘘吐きなんだぞ。母さんの面倒を見るようなこと言って、この家を売った金を奪うつもりなんだ」
「えっ?」
 ここに奈々美が来るまでの間に、さんざん言い争ったのだろうか。田辺夫人は泣きはらした目をしてうつむいている。
「バカ息子を三人とも大学に行かせたりするから、洋子の家は金がねぇんだ。夫婦して、母さんの金をあてにしてるのさ」
「それは、ないと思いますけど」
 田辺夫人がそんな悪い人だとは思えない。けれど奈々美のような若者に、人を見抜く力なんてないのだ。もしかしたら兄のいうように、お金目当てで家を売ろうとしているのだろうか。
「ご入居希望の施設は、とてもいいところのようですし」
「そんなとこに入れるわけねぇだろ。自分とこの物置にでも、押し込んで終わりさ」
 ピーちゃんの声真似をして、キライーッ、カエレーッと叫びたくなってきた。いくらなんでもそんな言い方はないだろう。
 ここ数日見ていただけでも、田辺夫人がよくお婆さんの世話をしているのがわかる。ヘルパーさんとしか呼ばれなくて、娘としては辛いだろうに、いつも笑顔でお婆さんの頼み事を叶えてあげていた。
 あの姿は本物だ。奈々美は田辺夫人を信じることにした。そうなればこの白髪まじりのいかつい初老男と、本気で戦わなければいけない。
「これから成年後見人の手続きに入ります。不満があるようでしたら、そこで異議を申し立ててください」
 少し強気で言ってみた。すると真田はまた鼻で笑った。
「それなら俺がなることに決まってる」
「はっ?」



「委任状、持ってるんだ」
 真田は上着のポケットから封筒を取りだすと、1枚の紙を引っ張り出す。
「もし自分が認知症になってぼけたら、俺を成年後見人に指名するって、委任状だ。この間、母さんがまともなときに書いたんだ。ちゃんとサインも判子もある」
 しまった、もっと成年後見人について勉強しておけばよかったと、奈々美は焦る。そんな委任状が有効だとしたら、あの可愛いお婆さんの後見人は、この嫌な男になってしまうのだ。
「あなたが後見人になるんですか?」
「ああ、そうなるな。悪いが、あんたのところにこの家は売らないよ。もっと高値で買ってくれるところがある」
「お母様をどうされるつもりですか?」
 その質問に真田は嫌そうな顔をした。
「あなたがきちんとお世話するんですか?」
「ちゃんとした施設に入れてやるよ」
 吐き捨てるように言うと、男は委任状をまた封筒にしまい始める。それを少々お借りできませんか、そう言いたいけれど無理だろう。兄にとっては、必勝グッズのはずだ。
 本当にサインしたのか確かめたくても、お婆さんはピーちゃんを連れて寝室にこもってしまった。どう考えても、この兄を信頼しているとは思えない。
「残念だな、儲け損なって」
「儲けるつもりなんてありません。わたし、歩合給じゃないので、お給料はどれだけ働いても一緒ですから」
 お金のためだけに働いているのじゃない。誰かの役に、少しでも立ちたいから働いている。この仕事も、お婆さんとピーちゃんの幸せな生活のためだった。
「静岡に行って、無添加高級わさび漬け買いたいから、わたし、あきらめません。田辺さん、お母様とピーちゃんを、あの素敵な施設に住まわせてあげましょうね」
 笑いたければ、好きなだけ鼻先で笑えばいい。
 奈々美は決意した。委任状なんかに負けるわけにはいかない。お婆さんを幸せにしてあげたいのだ。


 なぜかお婆さんの家で、夕食を食べていくことになってしまった。お婆さんのリクエストで、とてもよいお肉を使ったすき焼きだ。どうやらお婆さんは、息子の来襲のストレスを、おいしいものを食べることで発散させたいようだ。
「すいません。私までご馳走になって」
「いいんですよ。私ね、昔から兄の前だとなにも言えなくなっちゃうんです。若葉さんがはっきり言ってくれて、胸がすーっとしました」
 ピーちゃんはお婆さんから水菜を貰って食べていた。その合間に、とんでもないことを叫びだす。
「ワサビヅケ、アキラメマセン、ワサビヅケ」
「いや、それは、忘れてピーちゃん」
 そういえば外国で、夫婦が飼っていたオウムの証言で、夫婦げんかの末の殺人事件だったと立証されたことを思い出した。
 ピーちゃんが委任状を書いた当日のことを、少しでも覚えていてくれればいいのだが、それはさすかに無理だろう。
「お母様は本当にサインしたのでしょうか?」
「さぁ、私がいないときは、日中ヘルパーさんが来て、母の世話をしてくれているんですが、来客は区役所の福祉関係の人だけということです」
 右手のリウマチがひどくなってからは、毎日ヘルパーさんが来てくれているという。彼女らは夕方には帰るが、その後に来たのだろうか。
「詐欺や強盗が怖いから、夜は誰かきても絶対にドアを開けないように言ってたんですけど、兄だから入れてしまったんでしょうか?」
 声を聞いて開けてしまったかもしれない。お婆さんは今の兄の姿を息子とは思わないだろう。けれど声だけは、いくつになっても息子のものだ。記憶が混乱して、息子が帰宅したと思い込んでしまった可能性はある。

「父が亡くなったときに、遺産分けで兄にはかなりのお金を渡したんです。家は母のものなんだから、もうそれ以上家まで欲しがらないように言ったんですが」
 田辺夫人は食欲がないようだ。お婆さんと奈々美ばかりが、黙々と高級肉を食べている。
「兄は事業を始めても、失敗するばかりで、今度もこの家を売ったお金を狙ってるに決まってます。だけど委任状って、ああいうものがあると、どうすることもできませんよね?」
「いえ、だいじょうぶです」
 社長に訊けばだいじょうぶ、奈々美はそんなことを考えていた。
「でも不思議ですよね。どうして田辺さんがこちらに来て、家を売る話をしはじめたら、急にやってきたんでしょうか? お兄さんにその話、しましたか?」
「いいえ……兄とは以前、お金を貸せって言われて大げんかになって、それ以来、連絡はとってません。今回のことも、兄に知らせるつもりはありませんでした」
「でも、昼間わたしが来たときも、様子見に来てましたよ」
「そうなんですか?気がつかなかったわ」
 キライ、カエレとピーちゃんが叫んだのは、真田が来たときの恐ろしい場面を再生しているのだろうか。だとしたら最近、真田がここに来たのは事実のようだ。

「あっ!」
 思わず白滝を落としてしまった。奈々美のその様子を見て、お婆さんは笑い出す。
「加奈子ちゃん、慌てなくてもお肉はなくならないわよ」
 今度は新たなキャラ、加奈子ちゃんになってしまったようだ。
「加奈子は兄の娘です。兄は離婚したので、母はもう何年も加奈子には会ってません」
「そうなんですか」
「孫の中でも女の子は1人だけだったから、とても可愛がっていたんですよ」
 山田さんに間違われるより、加奈子ちゃんに間違われているほうがいいな。そんなことを思っていたら、突然、奈々美は気がついた。
「お兄さん、ここに1度来てますね。それで……」
 奈々美は立ち上がり、部屋の中を調べ始める。
「古い家……新しいものは、珍しいはず」
 きょろきょろと家の中を探し回る奈々美の肩に、いつの間にかピーちゃんが乗っていた。
「バカヤロー、オマエガウルサイ、ウルサイ」
「なにそれ、新しいヒントなの?」
 こんな言葉をお婆さんは口にしない。言ったのは兄に決まっている。
「ピーッ、ピーッ、ピーッ」
 ピーちゃんは1つのコンセントの前に降りると、くるくると回り出した。
 ヨウムは5歳児ほどの知能があるという。ピーちゃんはかなりお利口なヨウムだから、かなり記憶力はありそうだ
「ピーちゃん。これね?」
 奈々美は新しい二股コンセントを示した。するとピーちゃんは飛び立ち、お婆さんの元に戻った。
 新しい大きめのコンセントだが、使われている様子はない。
「若葉さん、どうかしましたか?」

「いえ……」
 コンセントを抜き取ると、奈々美はドライバーを借りてすぐに分解した。
「盗聴器ですよ、田辺さん。お兄さんは、あなたが来る前に、盗聴器を仕掛けにきてたんです」
「そんな……でも、兄ならやりそうですね」
 お金に困ってでもいるのか、真田はなんとかこの家を売って、お金にしたかったのだろう。けれどお婆さんは、決して真田に家を譲ることはしなかった。認知症になっていても、自分の家は守ったのだ。。
 そこで真田は、家の様子を調べるために盗聴器を仕掛けた。妹の田辺夫人が、母親を訪ねてくると予想したからだ。
「兄は、母の認知症がもっと進むのを、待っていたのかもしれませんね。そうすれば自分が後見人になれますもの」
「ところが田辺さんがやってきて、話が別方向に進みそうになったから、慌てたんでしょうね」
「なんてひどい……あんな兄に、母を任せるなんてできません」
「そうです。ここはわたしに任せてください。わたしが、わ、わたしが、なんとか打開策を見つけます」
 そうは言ったものの、どうすればいいのかわからない。ここは社長を頼るしかなさそうだ。
「加奈子ちゃん、お肉硬くなっちゃうわよ。いらっしゃい、食べましょう」
 あんな真田でも、お婆さんにとって可愛いくてたまらない孫娘を連れて、この家を訪れていたことも過去にはあったのだろう。それがどうして、お金のために親を利用しようとするようになったのか。
 ピーちゃんに水菜をあげているお婆さんの姿を見ながら、奈々美は悲しくなって深いため息を吐いていた。


「盗聴器なんて、よく思いついたな」
 分解した二股コンセントを手にしながら、社長は笑っている。昨日の経緯を話していた奈々美は、社長が面白がっていると感じた。
「以前、うちが貸しているマンションで、ストーカー被害に遭ってた女性がいたじゃないですか。あのときに勉強したんです。これ、ピーちゃんが場所教えてくれました」
「すげぇな、ヨウムだっけ? 鳥のくせに、若葉より賢そうだ」
「ですね」
 どうせヨウム以下の頭ですと思ったが、お婆さんを助けるためならもう少し利口にもなる。
「委任状って、ああいうの有効なんですか?」
「うーん、どうかな」
 あれは切り札、ジョーカーになってしまうのか。お婆さんはそんなものを書いた記憶がないというが、今ではなにもかも忘れて、混乱しているから確かな証言にはならない。
「勉強しろよ、若葉」
「しています。してますけど、よくわからなくて」
「簡単なことじゃないか。そのお兄さんは、まだ家庭裁判所で、成年後見人の資格をとってないんだ。どんな紙切れ持ってたって、無効だよ」
「でも、自分を成年後見人に指名するようにって、書いてあるらしいんです」
 社長は首を振り、盗聴器を組み立て始める。
「いいか、親族のうち1人でも、成年後見人になるのを反対したら、第三者に成年後見人を依頼しなくちゃいけないんだ」
「えっ、そうなんですか?」
「ああ、お兄さんは田辺さんが成年後見人になるのに反対してくるだろう。そうなったら司法書士か弁護士に頼まないといけない。申し立ての準備してくれた塩崎先生に、ついでに頼むといい。あの先生なら、高いこと言わずに引き受けてくれる」

 第三者とは、弁護士や司法書士ということだ。奈々美はそこで、疑問を口にする。
「お兄さんのほうで、自分に都合のいい第三者を立ててきたらどうします? なんか悪徳弁護士とか、怪しい司法書士とか連れてきそう」
「だいじょうぶだ。家庭裁判所の判断次第だが、俺たちのほうが有利だから」
「どう有利なんです?」
「さあね。自分で考えろ」
 考えてもわからない鳥頭だから訊いているのだ。
「社長、教えてくれないと、わさび漬けなしですよ」
「おまえならわかる。それと家庭裁判所、俺と塩崎先生もいっしょに行くから」
「ええーっ、それは、すごく、ものすごく助かります」
 社長がいれば、どんな罵詈雑言を浴びせられても耐えられる。悔しいが、若い娘だからなめられているのは事実だ。強面対いかつい顔、社長の強面のほうが強いような気がする。
「明日までに、答えををだしておくように。宿題だ。いいな」
「はい……」
 夏休みの宿題は、ぎりぎりになってからやった。最初にやってしまうほうが、何倍も夏休みを楽しめると知っていても、宿題をする気にならなかったのだ。
 そんな自分が、毎日、新たな宿題を与えられている。今なら宿題の必要性がよくわかる。あれは社会人になったとき、次々襲いかかる宿題を、巧みにこなすための練習だったのだ。


 宿題のヒントが欲しい。明日には家庭裁判所で、またあの嫌な真田と戦わなければいけないのだ。
 奈々美は考えながらコンビニに入る。昨夜はすき焼きをご馳走になったから、今夜がコンビニディナーでも、明日の体力はもちそうだ。
 実家を離れての一人暮らし、住んでいるのは自社が管理しているワンルームマンションで、食事は基本自炊だが、最近は買ってすませることが多い。
「頭にいい食べ物ってないかな……」
 やはり食事は自分で作ったほうが、頭にはいいような気がする。
「休みになったら、買い物に行かなくちゃ……」
 コールドチキンサラダを見つけて、思わず手が出た。
「鳥頭にいいかな」
 するとほとんど同時に手が伸びてきて、最後の1つだったコールドチキンサラダは奪われそうになった。
「えっ、あっ、それ、わたしも」
「あれ……」
「あっ、ど、どうも」
 気まずい。コールドチキンサラダの奪い合い相手は、眼科医の塚本だったのだ。
「どうぞ……」
 コーンサラダでがまんしようと思った。昨日のすき焼きほ思い出し、ほとんどキャベツばかりのコーンサラダを食べることにした。
「若葉さん、この近くなんですか?」
「はい、社には走って3分です。おかげで毎朝、一番出社です」
 塚本は遠慮しているのか、コールドチキンサラダを手にしない。いらないなら譲ってよと言いたいが、大切な顧客だ。たかがサラダで機嫌を損ねたくない。
「よければ、近くでごはん食べませんか?」

「えっ……」
「怪しい下心なんてないですよ。僕も、今から晩ごはんなんですが、一人だと食べに行く気になれなくて」
「でも、あの、接待とか、わたし、まだ権限ありませんので、ごちそうできません」
 困ったように言うと、塚本は笑い出した。
「接待なんてして欲しくないですよ。割り勘ならいいですか?」
「あ、それなら行きます。行きましょう」
 男性におごられるのは好きじゃない。大勢で飲みにいって、社長のようなボスタイプがおごるというならいいが、一対一の食事でおこられるのは好きではなかった。
 何人かの男性と付き合ったが、どうもこういうところが可愛げないと思われるのか、うまく続いたことがない。
 塚本のスタイルを見ると、部屋着のようなラフさだ。どうやら彼の家も、この近くらしい。これまでもコンビニでよく合っていたのだろうが、知らない同士では話すこともなかっただろう。
「ピザ食べませんか?一人で1枚だと、僕、飽きちゃうんですよね。シェアしましょうよ」
 いつも通り過ぎるだけのイタリアンレストランに、塚本は奈々美を誘った。
 ピザに飽きるからシェア、意外に塚本は女子力が高そうだ。テーブルに案内されて、メニューを渡されるとますます女子力がアップしている。なにを食べるか、楽しそうに悩んでいる。
 すき焼きに続きピザ、太るぞ自分と思いつつ、奈々美子は運ばれてきたグラスワインで乾杯していた。
「塚本先生は、どうして眼科を選んだんですか?」
 お客様を不快にさせない会話のルールその一、相手に対して関心があるように、まず質問をする。自分のことばかりしゃべらず、聞くことに徹しよう。
 どこかのセミナーで学んだ、接客のための会話術だ。それを思い出した奈々美は、無難な質問をしてみた。
「目って、もっと大切にしていいものなんですよ。老眼になってね。字が読めなくなったり、書きにくくなってから、慌てる人多いですよね」
「そうですね。当社でも、高齢のお客様用に老眼鏡は置いてあります」
「若いときから、適正視力を維持するのが大切なんですよ。僕はね、再生医療でもうすぐ角膜も安く作れるようになると思ってるんです」
 聞くことに徹しようと努力する必要はなかった。ほっといても塚本は、自分の興味のあることをずっとしゃべり続けている。
 コンビニでのことを気にしていたのか、チキンサラダが運ばれてきた。さらに熱々のピザがやってきて、奈々美は思わず目を閉じる。
「若葉さん、どうかしましたか?」


「いえ、おいしそうなんで、目がくらんだんです」
「熱いうちに食べましょう。ラーメンって、冷めないうちに食べるルールあるじゃないですか。ピザも適温以内に食べるには、何分がいいんでしょうね」
「さあ、何分でしょ」
 塚本はたくみにサラダを取り分けてくれた。よくしゃべる女子力の高い男だなと思っていたら、奈々美の耳に思いがけない言葉が聞こえてきた。
「サラダを取り分けるのもね。目が助けてるんです。手の動きを脳に指示するのは、目から入った情報ですから。ところが脳に損傷が起きるとね、自分では書いているつもりでも、これまで書けていた字が書けなくなったりするんですよ」
「……書けない」

「手の機能が衰えても書けなくなりますが、それとはまた違うんです」
「そうか……そうなんですね」
 宿題の答えが、とんでもないところから振ってきた。饒舌な塚本のおしゃべりに、奈々美にとって有益なヒントが隠れていたのだ。
 もう塚本がなにを話していても、ただ曖昧に頷くだけになっていた。
 けれど頭に浮かんだ答えが、正解かどうかはわからない。明日になって、あの嫌な男真田に、この答えを突きつけたらどうなるだろうか。
「あ、僕ばかりしゃべってましたね。すいません」
 ピザがなくなりかけた頃、やっと塚本は気がつく。
「若葉さん、休日とかなにをしてるんですか?」
「わたしは山歩きです。高い山じゃなくて、ちょっとした小山です」
「視力、よさそうだな」
「はい、両眼とも1.5ですよ。小山の上からだと、世界がよく見えて楽しいです」
 個人情報はこの程度にしておきたい。自分のことを話すのは、奈々美にとって苦手なことだった。
「それよりクリニックの設計、どちらにお願いするのか教えてください」
 話題を変えようとして失敗した。塚本にとってその話題は、どんなにしゃべってもしゃべり終わらないぐらい、楽しい話題だったのだ。


 塚本のおしゃべりに付き合ったせいで、今朝の奈々美は寝不足だ。田辺夫人とお婆さんを連れて、家庭裁判所に向かう間もついうとうとしてしまう。
 社長自ら運転してくれているので、奈々美も寝ていられる。ところが眠りそうになったときに、隣りに座っていたお婆さんが奈々美の腕を握ってきた。
「勇は悪い子じゃないの。だけどおかしな人と付き合うようになって、だめ人間になってしまったのよ」
「……そうなんですか」
 今朝のお婆さんは、はっきりとしゃべる。どうやら通常に戻ったらしい。
「あの、サインなんですけど、したの覚えてますか?」
「ごめんなさいね。なにも覚えてないの。いつもすぐに忘れるから」
「いいんですよ、だいじょうぶです」
 申し立てには真田も来るという。しかも奈々美の予想したとおり、弁護士を同伴しているようだ。田辺夫人が成年後見人になるのを阻み、自分の連れて来た弁護士を指名させるつもりなのだろう。
「ピーちゃんはね。亡くなった主人の生まれ変わりなの。だからね、死ぬまでいっしょにいないといけないのよ」
 お婆さんは微笑みながら、奈々美の手をそっと撫でてきた。
「新しいホームではね、同居人のところにちゃんとピーちゃんって、書いてあるの」
「同居人ですか……」
「ええ、だから、私はあそこに行きたいの。洋子の家も近いから、うるさい孫たちも来てくれるでしょ」
「ええ、来てくれると思います」
 奈々美の返事を聞いて、お婆さんは満足そうに目を閉じる。しばらくして目を開けたときには、いつものように調子がずれていた。
「孝さん、法事に行くのよ。あなた、黒のスーツどうしたの?」
 どうやら社長が、田辺夫人の旦那さんになってしまったらしい。
「ご住職、すみませんねぇ、常識も知らない婿で」
 司法書士の塩崎は、寺の住職になったようだ。
「加奈子ちゃんはお爺ちゃんのこと、よく知らないわね。お爺ちゃんは……」
 そこでお婆さんは押し黙り、しばらく静かに泣いていた。
 記憶がときどき繋がるのだろう。どうやら今は、ご主人を亡くした悲しい場面を思い出しているのだろう。

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「若葉、宿題の答えはでたのか?」
 家庭裁判所が近づいてくると、社長が訊いてくる。
「はい、でました」
「よし、もし間違ってたら、出張の経費なしな」
「ええっ、そんな!」
 それじゃ高級わさび漬けねなしにしてやると思ったが、ここで真田に負けてしまったら、静岡に行くこともできなくなってしまう。
 答えは合っていると思う。ただ反論されたとき、うまく受け答えできるかが問題だった。


 家庭裁判所の調査官の前に、2つの申立書が提出されていた。1つは塩崎が用意した、田辺夫人を成年後見人とするもの。もう1つは真田が用意した、弁護士を成年後見人とするものだった。
 真田が自分を指名させなかったのは、うまいやり方だ。弁護士なら公正というイメージがある。けれどどう見ても悪徳弁護士にしか見えない。よれよれのスーツに緩んだネクタイ、なにより印象が悪いのは、磨かれていない靴だった。
 奈々美は社長の姿を見て、悪徳弁護士との違いを感じ取った。
 清潔なシャツ、デザインはカジュアルだけれど、きちんと締められたネクタイ。靴は新品ではないが、きれいに磨かれている。
 入社初日、社長に言われたことを思い出す。不動産の営業は、家に上がることが多い。汚れた靴が玄関先にあったら、それだけでイメージは悪くなるのだから、安物の靴でも毎日磨けと教えられた。
 調査員は、ずらりと並んだ面々を見て困惑していた。
「真田良子さんの申立人は、塩崎司法書士だと思いましたが、2通も申立書がでています。これはどういうことですか?」
 奈々美が事情を説明しようとしたが、この前に真田が勢いよく話し出した。
「えーっ、私を成年後見人に指名するという、母からの委任状を持っています。なのに妹が勝手に話を進めて、母の財産を横領しようとしているので、それを阻止するためにやってきました」
「委任状ですか?それを提出してください」
 真田は勝ち誇った様子で、委任状を調査員の前に提出した。
「待ってください。我々はその委任状とやらを、見せてもらっていません。真田良子さんとしては、サインした覚えはないそうです」
 塩崎が抗議すると、調査員は委任状を見ることを許可してくれた。
 文面はワープロで書かれたもので、『私、真田良子の認知症が進んだとき、長男の真田勇を成年後見人とし、財産の管理の一切を任せます』と書かれている。
 そして自筆のサインと、判子がしっかり押されていた。
 それを見た瞬間、奈々美は勝ったと思った。
「本当にご本人が書かれたのでしょうか?」
 塩崎が疑わしそうに言うと、真田は勢いよく遮った。

「他に母の自筆書類があります。筆跡を比べたら、本物だってわかりますよ」
 それを聞いて奈々美はぶるっと武者震いする。
 自分にスポットライトが当たり、華々しくメインテーマを歌い上げる気分だった。
「書かれた日付は、先月になってますよね?」
 奈々美が小声で切り出すと、真田はまた鼻をフンッと鳴らして笑った。
「そうですよ。先月は、母もまだまともだったからね」
「今でも真田良子さんはまともですよ。たまに記憶の混乱が起こるけれど、間違った書類にサインするような人じゃありません」
「ふーん、母のことなんて知りもしないくせに。こいつら、母の家を売って一儲けしようとしている、悪徳不動産屋ですよ」
 さすがにそこまで言われたら、がまんができないだろう。社長が半歩前に出るのを見た奈々美は、さらにその前に出た。
「お母様のことを、よく知らないのはあなたです。真田良子さんが、3ヶ月前から持病のリウマチが悪化して、お箸もスプーンも持てなくなっているのを、ご存じじゃないんですか?」
 そこで奈々美はちらっと社長を振り返る。
 宿題の答え、これでいいんですよねと確かめるように。
「娘さんの田辺洋子さんは、そんなお母様の病状を心配して、介護付きの有料老人ホームをご自分の住まいの近くで探し出したんです。そこに入居するための資金として、家の売却代金を充てる予定です」
「高い有料老人ホームなんて、いれるわけないだろ。みんな騙されてるんだ」
 真田はまだ自分が優位だと思っている。奈々美は今度ははっきりと、真田に向かって言い切った。
「スプーンも持てない人が、どうやってあんなきれいなサインをするんですか?左手で書いたとしても、馴れない左手で書いたにしては字がきれいすぎます。成年後見人に指名されたなんておっしゃってますが、お母様が字も書けなくなっていること、あなたは知らないんですね」
 答えは単純なものだった。社長は奈々美の報告の中から、真田の計画のほころび部分に気付いたのだろう。
「認知症が進んだから書けないのじゃなくて、リウマチで手が痛いから書けないんですよ」
 奈々美の言葉に、真田は押し黙ったままだ。なにか反論しようとしているのだろうが、言葉が浮かばないらしい。
「おやおやぁ、偽物ってことは、私文書偽造かなぁ。いいのかなぁ、弁護士先生、そういうのに加担すると、資格が剥奪されちゃうんじゃないですか」
 社長が楽しそうに、よれよれ弁護士に向かって話しかけている。

「わ、私はそんな事実、知らなかったんですよ。真田さん、こりゃ無理だ。私は帰らせてもらいます」
 真田からお金をもらってここまで来たようだが、よれよれ弁護士には真田を助ける気持ちは一切ないらしい。
「あきらめなさいよ、真田さん」
 社長が今度は真田に話しかけている。
「この委任状で、こっちはあんたを訴えることだってできるんだ。お母さんの昔のサインを真似して書いたんだろうが、今はあんな字は書けない。筆跡鑑定してもいいし、そうだ、あの委任状にお母さんの指紋があるか調べてもいいね」

「指紋って……」
「紙にも指紋が付くんだよ。サインをしたなら、いろんなところに指紋が残ってるはずだ。若葉、証拠品」
 調査員の前に置かれた委任状を、真田が素早く奪い取ろうとしていた。それより早く、奈々美は委任状を奪い取る。
「チキンサラダでは負けたけど、これは負けないんだから」
「か、返せ。それは俺のだ」
「嫌ですっ!私文書偽造の証拠品ですから」
 無理矢理奪いとろうとする真田ともみ合いになった。するとお婆さんの凜とした声が響き渡った。
「勇、いいかげんにしなさい。人様に迷惑かけたらいけないって、あれほど言ってきたのに。もう帰りなさい。ここはあなたのいる場所じゃありません」
「母さん……」
「家はこの人に売ります。私がそう決めたの。今は勇より、この人のほうがずっと信じられるから」
 お婆さんは震える手で、奈々美の袖を掴もうとする。それを見た瞬間、奈々美は不覚にも涙を流していた。


 古屋を壊すのを見ると、いつも胸が痛む。そこに暮らしていた人々の様子が浮かんできて、もの悲しい気分になるのだ。
 バリバリと音を立てて、お婆さんの家が崩れていく。壁1枚、畳一畳に家族の歴史が染みついているのだ。
 お婆さんは孫の運転する車で、先ほど静岡に向かった。ピーちゃんは小さな籠に不満そうだったが、それでも奈々美が最後の挨拶をすると、いつもの甲高い声で、『ワサビヅケ、アキラメマセン』と言ってくれた。
「静岡行くとき、新幹線使ってもいいぞ」
 お見送りに付き合ってくれた社長は、寂しさで大人しくなっている奈々美を励ますように言ってくる。
「運転していきますよ。わたし、海老名インターのファンなんです。あそこで帰りにごはん食べるの楽しみなんですから」
「海老名って、なにがうまかったかな」
「メロンパンは王道ですけど、ホットドッグが実はすぐれものなんです」
「そうなの?」
「出汁屋さんのだし巻き卵もおいしいですよ」
 こんな話をしていると、寂しさも紛れる。短い間の付き合いだったが、奈々美はお婆さんとピーちゃんが大好きになっていたのだ。
「社長、初めての売買契約が、こんな形で成功して嬉しかったです。また次の物件がありましたら、ぜひ」
「どうかな。わさび漬けのランクで決めるかな」
「またそれ……」
 売るのは家や土地だけじゃない。そこに関わる人たちが幸せになれる瞬間を、少しでも多くプレゼントしたい。そんなふうに奈々美は思う。この気持ちはいつまでもなくしたくなかった。
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