「欠けたピース」

夜中に響き渡るサイレンの音。ざわめく人の話し声、泣き叫ぶわが子の悲痛な叫び声。そんなものが全部、まるで違う次元のことのように俺の耳には聞こえていた。
俺と子供二人は救急車に乗せられ、ちかくの病院まで緊急搬送される妻に付き添った。手首には痛々しい――と表現してもいいのかすら、はばかられるが――傷が残っている。手首はもう青白くなり、いわゆるリストカットだ。
とても生気は感じられない。
 
家の湯船には真っ赤な妻のいのちがこぼれだして、白かった浴槽の中を赤黒く染め上げていたのを俺は見た。かろうじて子供たちには見せることはなく済んだが、あの光景は生涯忘れることはできないだろう。
病院についてしばらくして、妻は命を引き取った。
冬の寒い日のこと。
妻が自ら命を絶った。
 
友人の多かった妻の突然の死に、方々の人が悲しんでくれ、たくさんの人が悼んでくれた。
葬儀の準備を葬祭会館の人たちと整えながら、俺はぼんやりと将来のことを考えていた。
ふたりの子供たちは高校を卒業し、大学に通っている。学費もかさむ。車もある。俺は仕事をやめるわけには到底いかない。それに、俺は家事なんてそもそも得意じゃない。
男親一人、娘二人。これから、どう暮らしてゆけばいいのか。
参列者をぼんやり眺めながら、俺は妻の死を悼めずにいた。俺が非情だとか、そういうことじゃない。理由はごく単純だ。
妻はノイローゼだったのだ。
妻はいわゆる外面のいいタイプで、友人は全くウソ偽りなく多かったし、人望も厚かった。
仕事もバリバリこなすキャリアウーマンタイプの妻は、それでも多くのストレスを体内に抱え込んでしまっていた。そのせいで、家に帰ってくると気分が落ち込み、次第に家事もできなくなっていった。しっかりした性格の女だったから、何もできなくなる自分にさらにいら立ちが進んだようで、最近ではよく死にたいと漏らすようになっていた。俺も娘も一生懸命に励ましはしたが、負の連鎖は人を引きずる。どうしても家が暗く、みんなの生気もなくなっていった。
そしてあの日。妻は俺と娘たちの帰りを待つことなく、マンション玄関ドアに紐を括り付けて首をつった。きっと手首を切っても死ねないから首を吊ったんだと警察は話していた。
遺書は短く一言、さようならとそれだけだった。
 
 
 
 
葬儀がすんでから、俺は娘二人と家族会議を開いた。
「……おとうさん、なに」
「実は、家を売ろうと思ってる」
「何で?!」
「この家で、俺ら、これからも暮らしていかないといけないんだぞ。母さんのいた家で。父さんには耐えられない」
「でも、お母さんの思い出があるじゃない!」
「そうだよ、お姉ちゃんの言う通りだよ!」
「俺にはお前たち二人を正しく育てる義務がある。母さんだって本当はそうしたかったはずだ。そのために、父さんは……」「近所の手前もあるしこのままここにはいられない……」
 
 
「……わかった」
「お姉ちゃん?!」
「でもきっと、そんなに簡単なことじゃないから」
 
 
娘の言ったことの正しさがわかったのは、それからまもなくのことだった。
妻が自殺したことによって、この家はいわゆる「事故物件」になってしまったのだ。人の死んだ部屋、という風評は瞬く間に広がって、この家に着いた評価額は著しく下落した。下落したにもかかわらず、買い手は全く、現れることはなかった。
その中でも幸いだったのは、友人の不動産業者がまずは俺たちの住む家を探し、手配してくれたことだった。俺たちはそこへの引っ越しの手続きを進めながら、それでも抱えるもう一つの「家」に頭を悩ませ続けていた。
手続きがあらかた済んだ後、友人が言いにくそうに口を開いた。
「なあ、お前の奥さんが亡くなった、あそこの家だけど」
「ああ、うん」
「もう、個人の客に売るのは難しいよ。正直な。俺らみたいな、不動産会社に売ったほうが、いいんじゃないか」
その選択肢も、もちろんないではなかったが、それでも価格は相場よりかなり低い。俺はあいまいな返事をしつつ、友人の言葉を待った。
「俺のとこで買ってもいい。少しは高く買ってやれる」
俺には頷く以外の、選択肢など、残されていなかった。
 
 
そして、ついに引っ越しの日。そして、今までの家を売ってしまう、その日。
家具がすべて運び出され、掃除をしていたとき、一冊のノートがベッドの下に落ちているのを見つけた。
震える指でそれを開くと、そこには妻の几帳面な字で、洗濯の仕方、料理のメニュー、掃除のやりかた、そんな、生活のことが、事細かに描かれていた。
俺は、妻が亡くなって初めて、大きな声で泣いた。娘二人も、一緒に泣いた。
 
 
これでよかったんだ。
どうか、願わくば。
俺たちの住んでいたあの家が、別の家族にとってよりよい場所であるように。
 
 
俺と娘二人は、今、新しい家で、妻のノートと一緒に暮らしている。
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