「ありがとう」

子は、私にとって宝物だ。遅く結婚した私にとって、40過ぎにできた初めての子供は読んで字のごとく目の中に入れてもいたくないくらいのかわいさだった。言葉を話せるようになり、歩けるようになり、感情を表すようになり、私は日々、その子の成長をいとおしく見守ってきた。
仕事は忙しく、あまり長く家にはいられないものの、息子の寝顔が私の一日の疲れを消し去ってくれる。
 
 
 
「ただいま」
今日も帰りが遅くなった。時計の針は10時を回っている。息子は寝室で眠っていた。いつものようにふすまを開け、中の息子の寝顔を見る。
「ただいま」
小さな声でそう言うと、息子の小さな咳払いが聞こえてきた。けほ、けほ、と断続的なそれ。苦しそうだ。妻が出てきて、なにか吸引具のようなものをそっと唇に添える。それを吸い込むと、息子は少し落ち着いたようで静かに眠りに落ちていった。
「どうしたんだ」
「それがね」
 
 
 
スーツを脱ぎ、スウェットに着替えると、食卓に着いて私は尋ねた。妻は困ったように眉を寄せ、口を開く。
「今朝から咳が止まらないから病院に行ったのよ。そしたらね、小児喘息だっていうの」
「喘息?」
「埃とか、そういうのが良くないんですって。もちろんきれいに毎日掃除はしているし、今日はしっかり布団も洗ったんだけど」
「そうか……」
 
 
 
もちろん妻を責めるつもりはない。家事はしっかりしてくれているし、家も清潔だ。原因は家自体にある。
今住んでいるマンションは、都心部にあり交通の便はいいものの、築年数がいささか立っていて、大変正直に言えば古い。フローリングではない畳敷きの床は埃が舞うし、管理も大変だ。結婚した時に安マンションだが自分たちの家をと購入したそれで、妻と私だけで住んでいたころは何ともなかったが、息子がアレルギーになった原因が家だというのならばどうしようもない。
「お薬と吸引でとりあえずは何とかなるっていうの。でも、やっぱりこの子の未来を考えたら……」
妻のまつげが伏せられ、瞳に影が落ちる。
私の中には一つの決意が生まれていた。
 
 
「そうか。長年勤めてもらったが、そういう事情なら仕方ない」
翌日、私は会社の上司に相談に行っていた。
「すみません」
「いや。そういうことなら、移動願を受理しよう。確か長野のほうに管理職の空きが出るようなことを言っていたし、私から打診してみる」
「本当になんとお礼を申し上げたらいいか」
「馬鹿。息子と妻を大事にするのは大切なことだろう。わが社にいてもらうんだから、別に退職させるわけでもなかろう。そうかしこまるな」
 
 
その日、私はいつもよりずいぶん早くに家に帰った。息子が笑顔で出迎えてくれ、抱きかかえて食卓へ着く。3人で食事をするのは休日以外にない。心なしか妻も喜んでいるように見えた。
「二人に話したいことがある」
「はい」
「なあに?」
「引っ越すことにする」
妻は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに意図をくみ取ったようだった。
「お仕事は」
「長野に移動願を出した。受理されればそっちに移動になる。あのあたりなら空気もきれいだし、物価も安いし、いいだろう」
 
 
 
「そうですね」
「おひっこしってなあに?」
「新しいお家に行くってことよ」
「へえ! たのしみだね!」
私には、妻と息子の笑顔が、何よりも大切だ。
それから付き合いのあった不動産会社に連絡し、もちろんそれほど高額ではないものの、営業さんの頑張りでそれなりの値段での買取を決めてくれた。その後まもなく異動届は受理され、私たちは長く住んだこの町を離れることになる。
 
新しい家では、息子の病気も少しずつ良くなるだろう。家にも帰りが早くなる。
今まで作ってきた思い出のある、引っ越しのせいで空っぽになった家に私は、感謝を込めて一礼した。
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