「君がくれた素敵なこと」

の夫は、全国に支社のある企業に勤めている。
だから、夫の転属が決まったことは、それほど驚くことではなかった。
別に海外に転勤というわけでもないし、夫は単身赴任を前にもしていたことがあったし、またそんなことだろう。
単身赴任になったのは確か、結婚してから2年目くらいのこと。1年限定の出向ではあったが、新婚の私たちに周囲は気を使って一緒に行くことも勧めてくれた。私たちには子供がいないから、身軽と言えば身軽だったが、私は着いていかなかった。
私は学校で教師をしているし、そうそう辞めることもできないのも着いていかなかった原因の一つだが、私自身が待つこと自体が不得手ではないのも理由だ。友人にはドライな性格だとよく言われるし、自分自身でもそう思っている。
夫から転属の話を聞いたその夜のこと。食事を終えて洗い物をしていた時、急に吐き気が襲ってきた。悪いものでも食べたかしらと思ったが、夫はぴんぴんしている。
少し休んでいると、お風呂から上がった夫が心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「お前、最近体調が悪そうだけど。本当に大丈夫か?」
「心配しすぎだよ。最近は学期末で忙しいから……大丈夫」
「そうか? 気をつけろよ。教師だって、体が資本なんだから」
「あなたもね」
確かに最近あまり体調がよくない。あまりご飯ものどを通らなくなっているし、日々のストレスが原因なのだろうか。あまり長引くと仕事にも支障をきたしてしまう。私は夫に笑いかけた。
「まあ、どっかで病院に行くよ」
 
それから1週間ほど。日曜日にやっている内科を見つけたので行くことにした。夫は相変わらず仕事だった。朝、彼を送り出してから準備をして近所の病院へ出かけた。ここのところ体調を崩すこともなかったから、病院に行くのは随分久しぶりだ。
病院に行くと、行くだけでまるで病人になったような気がするのはなぜなのだろう。看護師さんに呼ばれて先生といくつか問診をし、検査をし、そのあとまた先生のところに呼ばれた。
先生は思いがけずにこにこ笑っていた。看護婦さんも同じだ。なんだろうと不審に思っていると、先生が口を開いた。
「ご結婚は?」
「え? ああ、はい。していますけど」
「おめでとうございます」
「……え?」
 
「ただいま」
「……おかえり」
「……なんだよどうしたんだ。今日は病院に行ってきたんだろ」
「うん」
私は戸惑っていた。身近に子供がいる仕事はしているが、実際の感覚としては、初めてのことで、とてつもなく感情がかき乱されている。
「あの……あのね」
「なんだよ。大変な病気だったのか」
夫は本気で心配してくれ、いつもは向かいに座るのに隣に腰かけてくれた。
「あの……」
「うん」
「実は……こどもが、できてて……」
「……え」
夫の驚きも当然のことだ。自分はこれから単身赴任。私も仕事をしているし、辞めることだって考えたこともなかった。マンションのローンも残っているのに、育児にはお金がかかることも重々分かっている。
いっそのこと降ろせと言われても仕方のないことだ。
「……やった」
「え」
「やったな! おめでとう! こども、こどもか。俺、ついに父親か!」
「えっ、なん……」
「お前、嬉しくないの?」
「うれ、しいけど、でも……単身赴任もあるし」
夫はきょとんとした顔で私を見てから、太陽のように笑った。
「馬鹿。一緒に行きゃあいいじゃねえか」
「えっ」
「俺の稼ぎでお前たち家族を養っていくって。お前は心配するなよ。子供のことだって、心配することない。マンション売って、田舎で暮らしたほうが子供のためにもいいだろ。あっちで骨埋めよう。な」
夫の言葉に、一筋涙がこぼれた。泣きながら、私は笑った。
「うん!」
 
それから5年。夫はとある支社でキャリアを積み、若いながらそれなりのポジションに就くことができていた。私たちの住んでいたマンションは、手間や時間を考えると買い手を探すよりも不動産会社に売ったほうがいいだろうという夫の友人からの助言を受け、知り合いの不動産業者に売ることにした。営業担当さんが事情を知って随分よくしてくれ、売った代金を田舎で暮らしていく元手にすることができた。
今、私は教師の仕事をやめ、娘を保育園に預けて小さな学習塾でパートとして働いている。
「ままー!」
「なあにー」
娘は3歳。すくすく健康に育って、やっと言葉をしゃべれるようになった。まま、ぱぱ、と話せたその瞬間の私たちの喜びようと言ったら、まわりが笑ってしまうくらいだった。
「ぱぱのとこいく~!」
「パパはもうすぐ帰ってくるから、一緒に待ってようね」
がちゃりとドアの開く音。娘のぱたぱた走る足音に、私は言葉にできない幸福を感じる。
娘と、夫と暮らす小さいながらも幸せなこの時間が、娘がくれたとても素敵な「未来」だったのだと、今となっては思うのだ。
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