第2話 新築放火 (宅地建物取引士 奈々美の奮闘記)

中に消防車のけたたましいサイレンの音がすると、自然と目がさめてしまう。若葉奈々美はベッドから抜け出し、ベランダに出て外の様子を窺った。
「あれぇ、近いな」
勤務する『不動産ステーション』の自社物件マンション5階で、奈々美は一人で暮らしている。1Kの単身者用賃貸物件だ。走れば会社まで3分というのがなによりありがたい。
火事は会社のある駅前ではなく、反対方向の住宅地の一画だった。炎の勢いが激しいのか、ベランダからでもオレンジの炎が揺れているのが見える。
「こんな時間に……どうしたのかな」
時間は深夜の2時だった。住民がいるなら、ぐっすり眠っている時間だろう。逃げ遅れた犠牲者がいなければいい、そう思う奈々美の耳に、新たに近づいてくる消防車のサイレンの音が響いた。

今週はがんばって弁当を作っている。火事騒ぎで少し寝不足気味だけれど、今朝もちゃんと早起きして作ったのだ。卵焼きと鶏の照り焼き、プチトマトにブロッコリー、彩りのいい優等生弁当だ。
「早くお昼にならないかな……」
まだ昼まで間がある。今朝はパソコンで、賃貸物件の募集内容を編集していた。古くて安いアパートから新築のマンションまで、住宅情報サイトに提供する空室物件だ。
「おうっ、社長いるかっ!」
勢いよく入ってきたのは、奈々美もよく知っている工務店経営者の斉藤だった。
「あ、斉藤さん、社長、いらしてますよ」
奈々美は立ち上がり、斉藤のためにコーヒーをいれるつもりでキッチンに向かった。お客にお茶やコーヒーを用意するのは、別にいやではない。むしろ自分から進んでやっている。けれど社員のためのお茶は用意しない。ここでは各自、自分で好きなものをいれて飲むようになっている。
社長の泉田啓一は奈々美が入社したときに、お茶くみさせるために雇ったんじゃないとはっきり言ってきた。そういう扱われ方は嬉しい。宅地建物取引士の資格も取ったのだ。きちんと営業できる社員でありたかった。
「知恵を貸してくれよ。保険屋がよぅ、難癖つけやがって」
斉藤の声は大きい。社長のデスクはパーティションで仕切ってあるだけだから、話している内容が筒抜けだった。
「先週もあっただろ?同じ火曜日にさ。ありゃ絶対に放火だよな」
そこでコーヒーをいれる奈々美の手が止まる。昨夜の深夜の火事、どうやらあれは斉藤が扱っていた物件らしい。放火されたということなのだろうか。
「俺のとこの職人はよ、現場でタバコなんて絶対に吸わねぇんだ。それを保険屋のやつが、うちの火の不始末だなんて決めつけやがって、払わないつもりなんだよ」
斉藤の怒る気持ちはよくわかる。工務店は新築物件の建築を引き受けたとき、火災保険に入る。施工主に引き渡すまでの保険だ。それが払われないとなったら、新たに建てる建物の建設費から、燃えた跡地の復旧費用まで、すべてが自腹になってしまう。
火事の現場を復旧して建て直すのは、更地に新築を建てるより高額になる。それがすべて斉藤の経営する工務店の負担になってしまうのだ。
奈々美がコーヒーを差し出すと、斉藤は弱々しい笑顔になって愚痴ってきた。
「若葉ちゃん、聞いてくれよぅ。うちの新築物件、放火されちまったんだ」
「深夜2時頃の火事ですよね。消防車が何台も通ったから、起きて見てました」
「そうか、見てたのか。俺は寝てたとこ、警察に叩き起こされたんだ。ひでぇ話だろ!先週も新築物件がやられたんだぜ」
「そうですね。お気の毒です」
斉藤には気の毒だと思うが、奈々美はこのときはまだ職人の火の不始末を疑っていた。けれど社長の泉田の言葉が、奈々美の疑いを吹き飛ばしてくれた。
「先週の火災現場も、隣りの家が無人の新築だった。深夜の2時頃に、火勢が強くなったのも同じ。斉藤さん、明らかに放火だよ、警察はなにしてんの?」
「捜査はしてるみたいだが、時間がかかるんだとよ」
「その間にまたやるぞ。つかまるまで、何度もやるのが放火犯だからな」
奈々美はその場から離れずに、話を聞いていた。
放火犯がまたやる、その言葉が気になるのだ。
「新築の引き渡しが伸びたらよ、建て主に仮住まいの保証もしなけりゃならないから、さっさと結論だしてくれねぇと、俺んところが潰れちまうよ」
不安なのか斉藤の声に元気がなくなっている。個人で経営する工務店にとって、想定外の高額な支出は下手をすれば倒産につながってしまうのだ。
「だけど斉藤さん、まだ2軒だから警察も失火だと疑ってるんじゃないか?」
「そこなんだよ。保険屋も偶然、同じ地区で火事になっただけだって言い張りやがって」
恐ろしい考えが浮かんできて、奈々美は思わず口をはさんでしまった。
「あの……もしかして、うちの物件もやられる可能性があるんですか?」
泉田と斉藤は、同時に奈々美のことを見つめて困ったような顔をした。
「若葉、うちは施工業者じゃない。仲介業者だ。もし物件が狙われても、うちが支払う義務はないから安心しろ」
「はい、すいません」
ぺこりと頭を下げて、奈々美はその場を後にする。
社長の言うとおりだ、『不動産ステーション』は、仲介業者でしかない。新築物件の契約を結んでも、建てるのは斉藤が経営するような工務店だ。自社で計画し販売する建て売り物件を扱うことでもない限り、火災保険に入ることはない。
席に戻った奈々美は、パソコンの画面で地域のニュースを探す。
「先週の火事……あった、火曜日、新築物件から不審火」
自分には関係ないはずの事件だが、奈々美はどうしても納得できない。
「もしこの犯人が、来週もやるとしたら……狙われるのかな」
狙って欲しくない物件がある。それは大学卒業後、ここ『不動産ステーション』に入社した奈々美が、宅建の資格を取ってからやっと販売担当になれた、2軒目の物件だった。

ネットにだした土地物件の広告に、質問のメールがきたのは1ヶ月前だった。ちょっとした問題のある物件で、誰も担当したがらない。そこで奈々美は勢いよく手を挙げて、自ら担当に名乗り出た。
社長の泉田が買い取った土地だ。仲介ではなく自社の所有物件になる。よほど条件のいい土地で社長が買い取ったのかと思ったら、その逆だった。狭小の変形した土地で、宅地として売るには不向きなものなのだ。
どうしてやり手の社長が、そんな不良物件を買い取ったのかはわからない。隣りのビルの所有者が、駐車場にするため買い取ってくれると思ったのだろうか。けれどその様子はなく、土地は半年以上問い合わせもない状態だった。
翌日、メールで質問してきた依田夫妻がやってきた。二人の様子を見た瞬間、失礼だとは思ったが、奈々美の脳裏に真っ先に浮かんだのは10の数字だ。
旦那さんは痩せて長身、奥さんは小柄でかなりぽっちゃり、二人が並ぶとどう見ても数字の10にしか見えない。
アンケートに書かれていた年齢は、旦那さんが32、奥さんは26、家を持つにしてはかなり若い夫婦といえる。
「担当の若葉奈々美です。地形はネットでごらんになっていらっしゃいますから、すでにご存じでしょうが、現物の印象はもっと狭く感じられるかもしれません」
にこにこと笑顔の絶えない奥さん。自分からはあまり話さないし、無表情のように見えるけれど、どこか楽しそうな旦那さん。二人を前にして、奈々美の営業意欲は燃え上がるどころか、どんどん下がっていく。
若い夫婦だから、家を持ちたくても予算があまりないのだろう。そこであの土地の安さにつられて見にきたのだ。けれど現物を見たらがっかりするに決まっている。
土地は確かに安いけれど、あそこに家を建てるとなったら、大手建築メーカーの標準型では立てられない。設計から頼まなくてはいけなくなるから、高額な買い物になってしまう。予算オーバーになって、あきらめることになるだろう。
「ご案内しますね」
そう思っていても精一杯の笑顔を作り、奈々美は二人を社の車に乗せて現地に案内した。

3階建ての古いビルと、アパレル関連の2階建てオフィス、そこに挟まれた形でその土地はある。総面積14坪、家を建てても狭小住宅だ。
「木造でも3階までの建築許可はとれます。駐車場が必要ですか?」
奈々美の問いかけに答えてくれるのは、決まって奥さんだ。
「いいえ、車は持ってないんです。チャムくんもわたしも在宅ワーカーだから、通勤しないので」
「でしたら、居住部分をたっぷりとれますね」
職業はIT関係となっていたが、在宅ワーカーというからには、1日中家にいるということだろうか。だったらこの街に住む必要はない。もう少し郊外にいけば、庭もある新築住宅が同じような価格で手に入る。
「もう少し広いお家をご希望でしたら、予算内でお探しします、他社物件でもお取り次ぎはしますので、お任せください」
この狭さを見たら、奥さんが『やっぱり無理ーっ』とか言い出しそうだ。ところが奥さんはさらに笑顔になって、目を細めて言ってきた。
「いいえ、広い家はいらないんです。だって、掃除大変でしょ。お庭なんかあったら、草むしりとかしないといけないしぃ。それにこういうお隣とのトラブルがない家、理想だわ。近所づきあいって、めんどうでしょ?そう思いません」
「そうですね……」
近所づきあいはなさそうだ。左右どちらの会社も、夜になれば社員は帰っていく。
「広い部屋があったって、1日に利用するのは、デスクとダイニングテーブルくらいだもの。あとはお風呂とトイレがあればいいでしょ。ベッドルームなんて、寝られればいいんだから」
「そ、そうですね。シンプルな考え方、ですね」
奥さんがさらっと言ってくれたので、奈々美の気持ちは少し軽くなった。狭いからと売るのが申し訳なく思っていたが、狭いほうがいいという考え方もあったのだ。
「1階をご夫婦の寝室、2階をリビングダイニングにして、3階をお子様のお部屋という建て方もあると思いますが……」
ここが一番営業トークで気を遣うところだ。子供という言葉の扱いが難しい。客によってはNGワードになってしまうこともある。
「そうねぇ。一人ぐらいはいてもいいわね。五人は無理そうだけど」
けらけらと笑いながら、奥さんは楽しそうだ。どうやら地雷にはならなかったらしい。こうなれば勢いづいて、どんどん営業トークをすすめていくべきだ。
「土地が変形しておりますので、デザイン力のある設計士さんにお願いすることになると思います……おすすめしたい設計士さんもおりますが」
安い建て売り住宅の倍は建築費にかかります、そう言おうとした奈々美は、旦那さんが目をキラキラと輝かせていることに気がついた。
「収納に関しましては、家具などできるだけ置かず、デッドスペースを物入れとして利用するとかなり有効に部屋を使えると思います。階段下収納、床下収納などですね」
旦那さんはうんうんと無言で頷いている。どうやら彼の脳内では、すでにここに建つ家の様子が見えてきているらしい。
奈々美は弱気になったことをさらに反省した。狭いからだめなのではなく、狭いからいい人もいるのだ。そして安いほうがいい人ばかりでなく、高くても自分なりのこだわりのある家を建てたい人がいる。
「当社で紹介できる設計士さんの中に、若い女性なのですけれど、とてもお洒落な家を作られる方がいるんです」
「そうなんですか。すぐに紹介してください」
それまでほとんどしゃべらなかった旦那さんが、勢いよく言ってくる。
これはもう買う気だ。建てる気だ。たいして営業トークもしていないのに、どんどん話が進んでいく。奈々美にとって、こんな幸運はめったにない。
「設計事務所、すぐにご案内できますけど」
依田夫妻はそこで、子供みたいにわーいと叫んで喜んでいた。
鉄は熱いうちに打てというが、客は買う気のあるうちに、さっさと書類にサインさせろ。それが社長の教えだ。本日中に契約まで一気にすすめたい。奈々美の鼻息は荒くなった。

とんとん拍子という言葉の意味が、この契約でよくわかった。無口に思えた旦那さんは、設計事務所ではずっとしゃべりっぱなしだった。奥さんはただにこにこしていて、合間に少しだけ自分の要望を口にしていた。
そしてその日のうちに、無事土地の売買契約は成立し、社長の失敗購入物件だと思われた狭小の土地は、依田夫妻の所有となった。
建物の引き渡しまでが、奈々美の責任だ。提携している設計事務所と工務店、それぞれが完璧な仕事をして、依田夫妻に新築物件の鍵が渡されるまで、奈々美も安心できない。
条件が早期入居だったので、担当の工務店はがんばってくれている。すでに基礎部分は終わり、柱も立って、1階の床も張られていた。
そんなときにあの放火騒ぎだ。
「麻生さん、斉藤さんの物件、放火だと思います?」
斉藤が社長とともにでていった後で、奈々美は隣のデスクの麻生に訊いてみた。
「んっ……たまたま火曜に重なったんじゃないの」
20代後半の麻生は、社にいるときはひどく無愛想だ。同僚に自分から話しかけることは滅多にない。ところが仕事相手となると、とたんににこやかになってマシンガントークを繰り出す。
話し相手としてはあまり役立ちそうにないが、他の社員は出払っているので、仕方なく奈々美は麻生に意見を求めたのだ。
「たまたまかぁ……。それにしても放火だってことは確実なんですよね?」
「ニュース見ろよ。警察発表あった?なければ放火じゃないだろ」
「そうか。警察はまだ発表してないんだ。ってことは、犯人はまだやれるって、思ってますよね」
「若葉さ、刑事ドラマとか、警察24時とかって番組好きなの?」
「えっ……いえ」
刑事ドラマの見過ぎと思われているようだが、そんなことはない。社内で口にするのは恥ずかしいけれど、奈々美が好きなのは王道の恋愛ドラマだ。
「担当している新築が心配なだけです」
「工務店だって保険入ってるだろ」
「そうですけど」
そういう問題ではないのだ。やはり麻生では、説明してもわかってもらえないのだろうか。自分から話しかけたものの、奈々美は続ける言葉を失う。気になっていることを質問したら、また冷たくあしらわれそうだ。
「なぁ、午後からの仕事、代わってくんない?」
「えっ、どんな仕事です」
突然、おかしなことを言い出した。仕事だけはちゃんとやっている麻生にしては珍しい。奈々美が怪訝そうな顔を見せると、麻生は慌てた様子を見せた。
「いや、賃貸アパートの点検立ち会い。家賃滞納で、借り主が消えちまったんだよ」
「……それって……もしかして」
刑事ドラマ好きじゃなくても、想像することはできる。ただの夜逃げならまだいい方だ。もっとも恐ろしいのは、ドアを開いた瞬間、室内から漂う特有の臭いによって、中の惨状がわかってしまうという例のやつだ。
「もしかしてあれですか?」
「え、いや、まぁ」
麻生はぽりぽりとこめかみをかいて、ごまかしているつもりになっているらしい。そこで奈々美は冷たい声で、はっきりと言ってやった。
「すいません、わたし、午後はチラシ配りにでるんで」
「俺やるよ、チラシ配り得意だから」
「結構です。わたし、お年寄り相手得意ですから」
嫌な仕事を後輩に押しつけるなんてふざけている。腹が立ったが、奈々美はそこで声を荒げたりしない。優しげな笑みを浮かべて、麻生に言ってやった。
「清めのお塩とお酒、用意しておきますね」
麻生はいらないとは言わない。下唇を尖らせて、不満そうな顔をしていた。

この街は戦争中、ほとんどの家が焼けてしまっている。その後の再開発が進み、個人住宅が建ち並ぶ住宅街が、駅から少し離れた場所に広がっていった。けれどそれらの住宅も、建て替えられて昔日の面影はない。昔からある家のほとんどは、荒れた古屋状態だ。
そういった家々に、奈々美はチラシを投入していく。家と土地を売るつもりになったら、ぜひ当社にお任せくださいと書かれたチラシだ。
情報収集ならスマホという人がほとんどだろう。だが高齢者は違う。今でも紙に印刷されたチラシと、テレビやラジオから流れてくるものが情報源なのだ。
チラシを配っていると、話しかけてくる高齢者もいる。1度つかまったら最後、しばらくは話し相手になる覚悟をしなければいけない。
だがすべてが無駄話になるわけでもない。高齢者たちの横の繋がりから、有益な情報が得られることもあるのだ。
一軒の家のポストにチラシを入れようとした奈々美の手は止まった。郵便物が溢れている。留守にしている証だ。
「不用心だな。留守だって知らせてるみたいじゃない」
奈々美はバッグの中から、なにかあったときようのビニール袋を取りだし、ポストの中身をそこに移した。大半はDMかデリバリーのチラシだが、中には大切なものもあるだろう。それらをまとめて奈々美は、玄関の前に置いておいた。
余計なことをしているとわかっているが、あふれたポストは泥棒を誘っているようなものだ。
「田中さんならいないよ。2週間前に入院したんだ」
杖を手にした高齢者の男性が、奈々美の様子を怪しむこともなく声を掛けてくる。何回か話し相手になったことのある男性だった。
「郵便物、まとめて玄関の下に置いておきました。お戻りになったら、教えてあげてください。あのままじゃ雨に濡れるし、留守を知らせてるみたいで物騒だから」
「ああ、いっとくよ」
「そういえば最近、火事が多いですね」
それとなく話題にしてみる。一人暮らしの高齢者にとって、火事は恐ろしいものだ。自分の家での失火だけでなく、もらい火などしたら大変だろう。
「ああ、先週のはひどかったね。8割がたできあがってただろ。接着剤のついた段ボールだかが燃えたらしいね」
「……そうなんですか」
その情報の出所はどこ、そう叫びたいのをこらえて、奈々美は初めて聞く話に耳を傾けた。
「今時の職人は昔と違うからな。くわえタバコで仕事なんてしないよ。なのに外国人の職人が、警察にしつこく問い詰められてたってさ。気の毒だったな」
「へぇーっ」
「やつら外国人、いいやつなんだよ。うちの垣根の壊れたとこね、ひょいっと直してくれたりしてね」
話し好きの男性は、しばらく気のいいブラジル人労働者のことを話していた。どうやら警察は、彼らが仕事中に喫煙して、そのタバコの火が接着剤のこぼれた段ボールに引火したとうたがっているらしい。
それはおかしい。最初に火事になったのは、大手建設メーカーの現場だ。今の建築現場は、防災意識が昔と違い徹底している。建築中の家の中に、接着剤のこぼれた段ボールを置き去りにするのも変だし、建物の中で喫煙するなどありえないだろう。
新築現場では、建物から離れた場所に喫煙所を設けるか、車の中で吸うように指導されていたはずだ。万が一室内で吸ったとしても、6時には職人たちも帰るのに、それから8時間後の深夜2時に、いきなり段ボールが燃えだしたというのか。
「昨日も火事がありましたよね」
「ああ、それはよく知らん。次の囲碁会のときに聞いてみるかな」
情報源はお爺ちゃまたちの憩いの場、囲碁サロンだったらしい。来週になれば新しい情報が手に入るだろうが、それまで奈々美は待てそうもなかった。

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新築現場の保険

新築の住宅を施工主に引き渡すまでの間は、工務店が火事などの災害にたいして責任を持ちます。そのために利用されるのが、建設工事保険です。

保険の保証内容は各保険会社によって異なりますから、契約前に確認しておく必要があります。代表的な保険会社の保証例としては、放火による火事、落雷、台風などの自然災害による倒壊、洪水による建物流出などが保証対象となります。

建設業者による過失の場合は、支払いを断る場合があります。

建設工事の延期により、施工主の仮住まい費用等が必要となった場合は、保険に特約条項としての契約があれば支払われます。施工主は建設会社との契約時、この特約条項についての確認を忘れずにしておきましょう。そうしないと家の引き渡しが伸びた場合の家賃負担は、すべて施工主の支払いとなります。

奈々美はパソコンをオフにして、今読んでいた保険の説明をもう1度頭の中で整理する。依田夫妻の物件は、特約条項もいれてきちんと保険契約してある。工務店によっては、高い保険料を支払うのがいやで、なんとかごまかそうとするところもあるが、今回の工務店は良心的だった。
「問題はないはずなのに……引っかかるな」
そろそろ退社時間だ。社長は午前中に斉藤と出かけてから、まだ戻ってきていない。もめ事があると生き生きしてしまう社長だから、斉藤に頼られてあちらこちらと飛び回っているのだろう。
帰ろうとしたら、社長が戻ってきて奈々美の足は止まった。
「お疲れ様です。斉藤さんの件、どうなりました?」
「ああ、保険屋はどうしても払わないつもりらしい。警察の捜査待ちだな」
「ひどいですね」
斉藤を気の毒に思った奈々美の前に、社長はいきなり赤いボールを差し出す。
「なんですか?」
「防犯カラーボールだ。痴漢対策用として、独身一人住まい女性にプレゼントってのはどうかな?若葉も一応独身女子だから、1つサービスしてやる」
「いつも疑問に思うんですけど、ソフトボールの選手でもなきゃ、投げて確実に当たりませんよ」
「至近距離なら当たるだろ。明日、これの写真アップして、女性賃貸者サービス企画やってくれ」
どれほど集客効果があるかわからないが、明日はこのボールで、なにかおもしろい募集広告を作らなければいけないようだ。
「わかりました。では1つ、いただいていきます」
電車での通勤がないから、ここで勤務するようになって痴漢の被害にあったことがない。大学時代には、こんな奈々美でも何度か電車内で被害にあった。あのときの不快感を思えば、いやな痴漢の背中を真っ赤に染めて復讐するというのは、案外楽しいかもしれない。

社を出てから、スーパーに寄って買い物をする。弁当のおかずになりそうなもの、それと今夜食べるものだ。
「基本は3色、赤に緑に茶色」
呟きながら食材をカゴにいれていく。そうしているうちに、奈々美の手は止まった。
やはりどうしても、放火対策をしないままではいられない。保険に入っているからといって、それですむ問題とは思えないのだ。
「依田さん、あんなに楽しみにしているのに……」
今回、奈々美が紹介したのは、女性の設計士である相田だ。最初は設計をやりたかった奈々美にとって、相田は憧れの存在でもある。家事動線、介護のためのバリアフリーなどについて、特に優れたセンスを持つ設計士だ。
依田夫妻の依頼を、相田も喜んでくれた。狭小住宅などあまりやることがないから、余計に燃えたのだろう。
1階は夫婦の寝室とバスルーム、2階はリビングダイニングで、パソコンを置くデスクも作り付けになっている。3階は将来の子供部屋と、かなり狭いが二人は寝られるゲストルームになっている。
デッドスペースはすべて物入れにして、コンパクトなキッチンも特別仕様だ。床はお掃除ロボットが働きやすい、段差のないフローリングというリクエストだった。
完成したら住宅雑誌のモデルに使えそうなほど、素敵な家になるだろう。そのために工務店もがんばってくれている。
「……柱だって、特別なんだから」
真っ直ぐできれいなゴボウをつかみながら、奈々美は呟く。
「他に、同じものは2つとないんだから……」
そこが一番の問題だった。
大手住宅メーカーの建てる家だと、すでに柱や壁、床などは工場で規格品が出来上がっている。それを設計図に合わせて、ブロックを組み立てるようにして住宅に仕上げるのだ。
ところが注文住宅となると、柱の1本1本、階段の1段ごとに作ることから始めないといけない。もし途中で失敗したら、新たな柱を1から削り出さないといけなくなるのだ。大手メーカーのように、工場で別のストックをもらってくるというわけにいかない。
建築途中でなにかあったら、依田夫妻への引き渡しがかなり伸びることになってしまう。それだけはどうしてもいやだった。
「1度やったら、2度。2度やったら3度やるかもしれないんだよね?」
放火犯の心理なんてわからないが、奈々美には狙われた家の特徴はわかる。
隣りに人が住んでいない。空き地だったり、日中しか人のいないビルだったりするから、夜は近くに人がいなくなるのだ。
狭小住宅の土地も、同じような条件だ。左右の建物は夜になると無人で、裏手は倉庫になっていた。
奈々美は足早にレジに向かう。そして素早い動きで自動会計をすませた。
しなくてはいけないことがある。誰に頼まれたわけでもない。奈々美自身が、それをしないと納得できなかったのだ。

「懐中電灯、電池チェック。水、携帯トイレ、ティッシュのドライとウェット。救急医療セット、よし。夜食、スマホの充電池よし。寝袋、よーし」
ずらっと並べたさまざまなものを確認すると、奈々美は手早くリュックに詰めていく。 奈々美の趣味は山歩きだ。この程度の荷物では、重いなどとは感じない。もっと重い荷物を背負って、山道を何キロも歩くことがある。
高い山に登ったことはほとんどない。富士山に1度登っただけだ。奈々美が好きなのは、小山ていどの山を歩いて登ることだった。
どうして山歩きが好きなのだろう。自分でもよくわかっていない。テニスとかバスケットとか、いくらでも他のスポーツを楽しめるというのに、地味な山歩きばかりしている。
もし理由があるとしたら、奈々美は勝敗や優劣のあるスポーツが苦手なのかもしれない。
「よし、シャワーは出社前に、部屋に戻ってからにしよう」
リュックを背負って部屋を出る。そして依田夫妻の新築現場に向かって歩き出した。
「しまった。消火器忘れた、明日は簡易消火器用意しておかなくちゃ」
誰かに命じられたわけでもないのに、奈々美は建築中の家の自主警備に乗り出すつもりなのだ。
「社長が知ったら……怒られるだろうな」
同じ柱がないんです、また作り直すと工期が伸びるんです。そう説明したら社長はわかってくれるだろうか。
駅前は深夜まで賑わっている街だが、住宅街に入ると夜は静かだ。特に古い建物が多いあたりは、人が住んでいてもどこも雨戸が閉ざされていて、話し声やテレビの音ももれてこない。
「あれ?退院したんだ」
昼間、郵便物を集めてあげた家から、磨りガラスをとおして微かな灯りが見える。身内が着替えなど取りにきただけなのだろうか。郵便物は昼間奈々美が置いたままの状態になっていた。
「夜だから気がつかなかったのかな。ドアノブにぶら下げておいたほうがよかったかも」
灯りはそこでふっと消えた。
「えっ、えええええ」
奈々美はぶるっと体を震わせる。昼間、社に戻って来たときの麻生の蒼白な顔を、なぜか思い出してしまったのだ。
「まさか、病院にいるんだから、帰ってきたのは身内の人だって。生き霊とか、幽霊とかじゃないってば」
魂だけ帰ってきたなんて、そんなことはありえない。奈々美は足早にその古屋の側を通り過ぎた。そのうち足はどんどん速くなって、ついにはマラソンのスタート時の速さぐらいになっていた。

ブルーシートに被われただけの建築現場は、不用心に思える。けれど工務店だって、夜も建物を警護するなど不可能だ。結局は保険という手段で、工務店も施工主も建物を守るしかない。
「わざわざ新築警護のためにやってくる宅建なんて、いないと思う」
奈々美は自虐の意味を込めてふふふと笑った。
「キャンプにはなれてるんだからって……テントがないか」
大学時代は山歩きサークルで、関東のキャンプ場のいくつかを訪れた。奈々美は薪割りと、木をこすって火を点ける技では、誰にも負けたことがない。もっともそんなテクニックがあったって、実生活ではあまり役に立たないのだが。
寝袋の中に入って、スマホで見逃した連続ドラマを観る。家にいると、つい明日でいいやと思って観なかったりするから、3週間分くらいすぐにたまってしまうのだ。
見逃した2本分を、あっという間に見終えてしまった。そうなるともう寝るしかすることがない。
「そうだ。工務店さんに、禁煙を徹底してもらうようにしよう」
斉藤が保険屋に疑われるのは、どちらかというと古い体質の工務店だから、職人が禁煙のルールを守れていないと思われているせいだ。
「明日は現場用の禁煙ポスターを作る。カラーボールの企画、独身女性だけって、文句を言われそうだな」
ぶつぶつと独り言を呟きながら、奈々美は柱のむき出しになった建物の中を見回した。
「柱、1本、1本がオリジナルなんだから、替わりはないの。みんなががんばって、木から家を作ろうとしているのに……どうして燃やそうなんて思うのかな」
幼稚園に入る前に、奈々美の両親は家を新築した。建前の日、祖父と父親が屋根に上って餅をまいている姿は、今でも鮮明に覚えている。
大学に入ってから、友人にその話をしたら本気で笑われた。どうやら建前に餅をまくというのは、都会では廃れたイベントになっているらしい。
「餅まきかぁ。いいね、今度うちのホームページに特集記事のせよう」
空から降ってくるのは餅だけじゃない。カラーボールに酒とかビールと書かれているものや、お菓子の袋、小銭の入ったおひねりなども降ってきていて、みんな必死になって拾っていた。
「餅まき……」
いつの間にかうとうとしていたらしい。屋根の上にいるのは父親ではなく、社長になっていた。社長は大量の真っ赤な防犯カラーボールを抱えていて、地上に向かってどんどん投げてくる。
それを必死で拾っている自分がいて、奈々美はうなされながら眠っていた。

5日間はなにごともなく過ごせた。放火犯のこだわりは火曜日なのだろうか。今日は月曜日だが、油断はできない。
「なんだよ、この伝統の餅投げ儀式って。こんなの載せて、客がやりたいって言い出したらどうすんだよ」
仕事の交換を断ってから、奈々美に対する麻生の態度は辛辣だ。完成した記事をアップした途端に、冷笑しながらけなしている。
「いいじゃないですか。今でも地方ではやってるんですよ。都会ではやらなくなって、寂しいですよね。あ。もしかして麻生さん、餅投げ知らなかったんですか?」
「知らねぇよ。俺はマンション育ちだ」
「あーあ、それは残念でしたねぇ。うちの地方はね、結構やってましたよ。お餅をダイレクトにキャッチするのって、楽しいんだから」
そこに社長がやってきて、奈々美を手招きしている。カラーボールキャンペーンの企画も立ち上げたし、餅投げ記事もアップした。ほめられるのかと思って、足取りも軽く社長のデスクの前に立ったら、いきなりおかしなことを言われた。
「若葉、いいにくいんだが、その……カレシでもできたのか?」
「……ん……いいえ?どうしたんです、社長、いきなりその質問」
「おまえ、最近、おかしいよ。俺に隠してることないか?」
「……え、いいえ、ありません」
新築現場に毎日寝泊まりしているなんて、とても社長には言えない。なのに社長は奈々美を疑っている。どうしてわかってしまったのだろう。
「わたし、なにかミスしましたか?」
「これまでがんばって弁当を作っていたのに、突然やめた。なぜか夜に洗っていた髪を、朝、洗うようになった。これって、カレシができたからって思わないか?」
「……そういうのに気がつく時点で、社長、ストーカーみたいですよ。気持ち悪いからやめてください」
どうして朝シャンだとわかるのだ。たしかに新築自警団を始めてから、忙しくて弁当を作っている時間がない。そこを社長に突っ込まれるとは思わなかった。
「カレシのせいでって、言い訳するかと思ったら、だめだな、若葉、正直過ぎて」
「えっ?」
「工務店から感謝されたぞ。毎日、防犯社員がきてくれているってな」
「あっ……」
いつもは職人がくる前に、現場から家に戻っている。それが昨日の日曜日、現場は休みだと思ってつい寝過ごしてしまった。すると依田夫妻の期待に応えるために、工事を急いでくれている工務店の職人がきてしまったのだ。
「ありがとう、会社のために、そこまでしてくれて……って、言うと思ったか、バカヤローッ!!」
いきなり大声で怒られたから、これで社内の全員が奈々美のおバカぶりを知ってしまっただろう。
「なにを考えてるんだ。俺はな、ご両親から大切な娘さんを預かってるんだぞ。そんな危険な仕事、誰が、いつおまえに頼んだんだ!」
「待ってください。女だから、わたしが女だから、だめなんですか?もし男性社員なら、許していただけたんですか?」
勝手にやったことを怒られたのなら、素直に謝っただろう。だが大切な娘さんを預かったとはどういう意味だ。
「勝手にやったことは謝ります。だけど、女だからだめっていうのは納得できません」
「バカかおまえは。もしなにかあったらどうするんだ。自分でなんでもできるなんて、うぬぼれるんじゃないっ!」
「だけど、柱はあの1本だけなんです。階段の板も、壁の板も、みんな、他に替わりがないんですよ。だから火をつけられるわけにはいかないんです!」
「はぁ?」
「あの家は、あの狭小住宅は、世界でたった1つしかない、特別な家なんです。放火犯の餌食になんてされたくありません!」
大声で訴える奈々美の姿に、社長も呆れて怒る気力がなくなったらしい。口元を引きつらせて奈々美を見ている。
「燃やされたら、また新しく柱の1本から作り直さないといけないんですよ。工務店さんも設計士さんも、施工主のために必死に毎日がんばってくれているのに、やり直しですか!」
「家を守りたいって気持ちはわかるがな、相手は正体の知れない放火犯なんだぞ。自分がやられる可能性だってあるんだ。そこを考えろよ」
「……そこは……あんまり、考えてませんでした」
火を消すことばかり考えていたが、社長のいうとおりだ。もし相手がプロレスラー並みの体格をした大男だったら、火を消す前に自分が簡単にやられてしまう。
「どうすればいいんですか?警察が犯人を逮捕してくれるまで、安心できません。なのに、まだ放火かどうかもわかってないんでしょ?」
防犯カメラの普及によって、怪しい人影をチェックすることは簡単にできるようになった。けれどその怪しい人影が、どこに住んでいる誰なのかを調べるのは、やはり警察の地道な捜査が必要なのだ。
「斉藤さんから聞いた情報だ。他に流すなよ」
そう切り出して、社長は声をひそめる。
「放火だよ。接着剤を火だねに使ったらしい。斉藤さんとこで使ってる接着剤と違うものなんで、保険もどうやらおりそうだ」
「接着剤……」
高齢の男性が教えてくれた、囲碁の会の情報は正しかったのだ。
壁のクロスを貼ったりするので、接着剤はよく使われる。市販されている木工ボンドは水溶性だから燃えることはないが、建築用の接着剤の中には発火する成分の入ったものがあって、使用中は火気厳禁と書かれていたりする。
現場にあってもおかしくないものを使っての放火、奈々美は放火犯の正体が、実は建築関係の職人なのではないかと思った。
「社長、怪しい人に心当たりはないんですか?」
「なんで俺が怪しい人を知ってるんだ」
類は友を呼ぶ、思わずその言葉を言いそうになった奈々美は、笑顔でごまかす。
「あーあ、わかった。それじゃ、麻生、おまえ今夜から、若葉と一緒に現場に泊まり込みだ」
いきなり使命された麻生は、椅子から飛び上がって抗議してくる。
「しゃ、社長、それはないでしょう。若葉が勝手に始めたことですよ。なんで、俺、俺、関係ないっすよ」
「安心しろ。男性社員、全員が交代でやることにするから」
『不動産ステーション』には、社長を含めて5人の男性社員がいる。奈々美は彼ら全員から恨まれそうだ。
「若葉、合宿に必要なもの買ってこい」
「いいんですか?」
「自費でな」
にやっと笑って社長はいう。さすがに今回は、いやですとはいえなかった。とりあえず男性向けの寝袋が必要になるだろう。それと毎回、夜食など用意しなければいけなくなるのだろうか。
「冗談だ。経費で落としてやるが、カラーボールキャンペーンの動画作成しろ。それでな、おまえがモデルやれ」
「えっ、ええーっ。モデルさんやとってくださいよ」
「モデル代いくらかかるか知ってるか?合宿費用とどっちが高いかな?」
「あっ……はい、わかりました。やります、やりますから」
自社のホームページとはいえ、顔をだすだけでなく、全身をさらすことになろうとは思わなかった。けれどそれで社長が機嫌を直し、あの家を守ることに協力してくれるのならいい。みんなで守ってくれるというなら、どんな恥でもかく覚悟はできた。

最初のペアが麻生というのがつらい。一晩中、辛辣な嫌みを言われそうだ。機嫌をとるつもりはないが、協力してくれたお礼の意味をこめて、奈々美は夜食のおにぎりを用意した。そのせいでリュックがいつもより重い。
入院している田中さんの家の前をとおる。また磨りガラスの向こうで、灯りがちらちら揺れていた。
「変ね……郵便物がそのまま」
身内がいるのなら、鍵を使って玄関から出入りするはずだ。なのに奈々美がまとめてあげたまま、郵便物は玄関前に放置されている。
「郵便物だって気がついたら、中身を点検しないかな?入院している田中さんに、届けるものだってあるだろうし」
奈々美は垣根越しに、家の中の様子を窺う。ちらちらと揺れる光は、どうやら蝋燭を灯しているらしい。
「もしかして、勝手に入ってる?」
他人の家に勝手に住み着いてしまうのは、別荘地などではたまにあることだ。使ってもいない電気代の請求がきて、初めて気がつくことになる。
田中さんの入院を知って、誰かが住み着いてしまったのだろうか。警察に通報すべきだろうが、それより大事なのは新築の警護だ。麻生を待たせたら、ますます機嫌を損ねてしまうことになる。
「お化けじゃなさそう」
気になるが、なににでも首を突っ込むなと社長に叱られそうだ。気にはなったが、奈々美は新築現場に向かって歩き出した。

「ずるいよな。社長は女ってだけで、若葉に甘すぎ」
渡された夜食をすぐに食べながら、麻生は文句を言っている。
「女は差別されてるっていうけど、逆だろ。女のほうが、ずっと得してる」
「そんなことありませんよ。わたし、若造で女だから、なかなか営業成績伸びないし」
営業で得意なのは、女性とお年寄りの賃貸契約だ。土地建物の売買なんて、今回が2回目だった。
「あーあ、この間の点検だってさ。おまえが行ってたら、大家も確認なんてさせなかっただろうな」
「どうしてですか?」
「女の子にそんなものは見せられないって、大家が言い出すに決まってる。そう思ったから、代わってくれって言ったのに」
「わたしは、確認しますよ」
「なんで?」
「だって、仕事ですもの」
お茶くみのために雇われたのじゃない。宅建としての仕事をするために雇われたのだ。仕事ならなんでもやる覚悟はできている。
「あーあ、そういう優等生発言、むかつく」
まじめに働いてなにが悪いのだ。勝手にむかついてくれと思いながら、これなら1人のほうがずっと楽しかったなと奈々美は呟きそうになっていた。
しばらく沈黙が続いた。さすがに麻生もすまないと思ったのだろう。いつもより優しい口調で言ってきた。
「接着剤ってさ。ああいうの素人は、燃えるって知らないと思うんだよ」
「……」
「家ではノリとボンドと瞬間接着剤くらいしか使わないだろ。どう考えても同業者、建設業者っぽいよな」
「それはわたしも思いました」
「あれって最初はドロドロのベタベタだけど、乾くとくっついてるんだ。そうなると燃えない。乾ききる前に、火を点けてるんだよな。自分にも引火する危険性あるだろ。それがないってことは、扱いに慣れてるんだ」
キーキー文句ばかり言っていたが、麻生もそれなりに考えてくれていたようだ。
「床にこう、ばぁーってまいてさ。そこに火を点けるんだろうな。きっとさ、新築建てる人に、うんと恨みがあるんだろうな」
「麻生さん、警察24時とか見てます?」
「見てねぇよ。俺は、海外ドラマの特殊犯罪捜査ものが好きなだけ」
「あっ、今、すごい納得しました」
麻生も奈々美も、脳裏に浮かんだ犯人像は同じようなものだ。けれど具体的な姿が、まったくわからない。年齢は若いのか、若くないのか。大柄な男か、小柄の男か。もしかしたら日々使っているコンビニや銀行で、その犯人とすれ違っているかもしれないのだ。
「恨みって、なんでしょうか。解雇されたとか?」
質問に対して、麻生は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「人間って、そんな単純じゃないだろう。解雇され、再就職もできず、アルコールに溺れるようになり、ついには家も失い、新築を建てる幸せな人たちへの恨みつらみが……」
麻生は営業中のようなマシンガントークになっていた。社内ではほとんどしゃべらない麻生が、どうスイッチを切り替えたのだろう。
「だけど多少はやつにも良心があるんだ。なぜなら人の住んでいる家は狙わない。犠牲者がでることは怖れてる。そりゃつかまれば、罪の重さが違うよな」
奈々美は麻生の独演を聞きながら、どうも自分は男たちにとって、好き放題しゃべっていい相手だと認識されているなと思った。
「気に入らないのは、基礎だけできている現場じゃなくて、完成目前の家を狙うってことだよな。建て主や工務店の希望を打ち砕き……」
「あっ!」
奈々美が突然立ち上がったので、麻生は驚いてよろけていた。
「な、なんだよ」
「隠れ場所、入院した田中さんの家じゃないかしら」
「田中さんって、だれ!」
「おかしいんですよ。電気はつけてないのに、中に人がいるみたいなんです。家主の田中さんは入院してるのに、ちらちら蝋燭の光みたいなのがゆれてて」
警察だって捜査をしている。奈々美よりはずっと優秀な捜査陣だ。元かまたは現役の建設作業員で、接着剤の知識がある者を調べているはずだ。
けれど住所がこの近所でなければ、警察にも該当者をすぐには見つけられない。
「もしかしたら、田中さんが入院したころに、ここに来たんじゃないかしら。過去には、他の県とかでもやってるかもしれませんね。空き家に住んでたら、見つかりにくいし」
「あーあ、やだ、優等生、もしその推理当たってたら、かなりむかつくんだけど」
「だめです。勝手に推理してるだけで、田中さんちに押し入ることなんてできないし、もしかしたら全然、関係ない人かもしれないし」
警察に報告しても、まじめに聞いてもらえるかどうかわからない。余計なことをするなと怒られそうだった。
「若葉、ここじゃないかもな」
「えっ?」
「この家はまだ5割くらいしかできてない。もう一軒あるんだ。完成間近で、近所に人がいない家」
「う、うちの物件ですか?」
「堂島さんが売った物件。大友建設の建て売りが4軒あって、完成前にうちの仲介で売れたやつがあるんだ」
奈々美は素早く荷物をリュックに詰め込んだ。ここは気になるが、まだ完成にはほど遠い。放火犯にとっては、燃やしても楽しくはないだろう。
「場所、教えてください」
「俺もいくよ」
「無理しなくていいです」
「もし当たってたら、俺の推理が正しかったことになるだろ」
自分のほうが推理力が上だとでも言いたいのだろうか。麻生の推理が当たったら、素直に称賛してあげようと思う。奈々美にとって、勝ち負けなんてことはあまり意味がない。結果が正しければそれでいいのだ。

問題の建て売り物件は、駅からかなり離れた場所にあった。以前は自動車教習所として営業していた場所で、まだ施設の一部がそのままになっている。
街灯は少なく、新築の家の白い壁ばかりが暗闇の中で目立っていた。新築物件と書かれた幟が数本、道路近くに立てられていて、風を受けてバタバタと揺れている。
タクシーを降りた奈々美と麻生は、思わず辺りを見回した。
「いい具合に風が吹いてるな」
「そうですね。ここで火がついたら、4軒全焼ですよ」
奈々美はそんな悲劇を想像して、ぶるっと体を震わせた。
「建物、鍵、かかってますよね」
「ああ、しょうがないから、庭で寝るか」
「犯人に見えない場所を探さないと」
家に近づいた奈々美は、玄関のドアに触れてみて、鍵が開いていることに気がついた。
「やだ、あ、開いてます」
「えーっ、おい、もう?いるのかよ」
施工業者ならここまで完成した家を、鍵もかけずに放置するはずがない。もしなにかあったら、施工業者のミスとなって保険は支払われないだろう。
「どうしましょう……は、入りますか?」
「お、おお、は、入るか」
ドアを前にして、麻生は動かない。そして奈々美に向かって言ってきた。
「レディファースト、お先にどうぞ」
「今、それ?」
せっかく麻生の評価が上向きかけたのに、これでまた激しく落ちてしまった。
奈々美は懐中電灯を手にしたが、スイッチは入れずにゆっくりと中に入っていった。新築への気遣いで、つい靴を脱いでしまっている。犯人と対決なんてことになったら、靴を履かずに走って逃げるのかと、余計なことまで考えてしまった。
新築の床はしっかりしていて、ミシミシなんて音はしない。滑るように歩いて、2人はリビングルームのドアの前で止まった。
ドアノブに手を伸ばす。開けたらそこに放火犯がいるのだろうか。
「……?」
奈々美はドアを開ける。すると暗闇の中、人が動く気配があった。
「えーっ、誰、誰ですか。麻生さん、警察、警察呼んで。不審者、発見」
急いで懐中電灯のスイッチを入れて、奈々美はそこにいた人物を照らし出した。ところがまぶしげに懐中電灯の灯りを見つめているのは、なんと社長の泉田だった。
「しゃ、社長。なにしてるんですか?」
まさか社長が放火犯、間違ってもそんなはずはない。ではこれはどういうことなのか。
「なんだよ、おまえらも気がついたのか?」
社長は眠そうな声を出している。床には毛布が敷かれていて、どうやら眠っていたらしい。
「やっと寝たのに。起こしやがって」
「すいません。だけど社長がいるなんて、想定外です」
「放火犯がやるならこっちだろ。4軒もあるし、近所に住宅もない」
さすが社長だった。ここが狙われると、すでに読んでいたのだ。
「電気つけるとばれるからな。ゆっくり動いて探せ。部屋の隅に、消火器とカラーボールがある。各自、カラーボール2個ずつ持ってろ。犯人が逃げたら、その背中狙うんだ」
「いやぁ、まいったな、社長も同じこと考えてたなんて」
麻生は少し悔しそうだ。
「1度やったら、2度やる。2度目もうまくやれたら、次はもっと大きなやつをやりたくなる。そういうもんなんだろう」
もっと大きく狙うなら、狭小住宅ではない。4軒分の幸せを、ここなら壊せる。社長もそこが気になったようだ。
「建て売りの規格品だってな。建ててる業者にとっちゃ、大切な物件なんだよ。売った物件に人が住んで、その人たちが幸せになって、そこで初めて俺たちの仕事は完成なんだ。若葉、注文住宅だけが特別ってことはないぞ」
「は、はい。身にしみました」
「けどな、若葉に言われて、俺も反省した。売ったからには、鍵を渡すまで俺たちにも責任がある。引っ越しを楽しみにしている家族のためにも、犯人がつかまるまでは、ぼんやりしてたらいけないよな」
この会社に就職してよかった。奈々美は心底そう思った。家というものは、一生にそう何度も買うようなものではない。一生に1度の大イベントかもしれない新築購入を、快く行えるように力を貸す。それが奈々美のしたかった仕事なのだ。

奈々美は眠ることもできずに、ただ暗闇を見つめていた。左右にいる男たちは、こんな環境でも眠れるらしい。けれど静かに眠っているのではなく、社長は鼾をかき、麻生は歯ぎしりだ。両方からのステレオ放送で、これでは眠れそうになかった。
スマホでゲームでもしようかなと思った奈々美は、鼾と歯ぎしり以外の音を聞いた。古びた自転車がたてるような、キーキーといった音だ。どうやら建て売り住宅の私道部分を、何度も往復しているらしい。
そのうちにキーキーという音が止んだ。おそらく自転車を降りた人物は、一軒、一軒、鍵を確認しているのではないか。入りやすい家を探している。そんな気がして、奈々美は社長の体をゆすった。
「社長、います、外に、誰かきてます」
「んーっ、新聞配達じゃないか?」
「誰も住んでないのに、新聞配達きませんよ」
「ああ、しっ、静に。カラーボール、構えてろ」
3人はごそごそと起き出す。そのとき、ついに玄関のドアが開く音がした。
「えっ、マジ、きたーっ」
麻生の声は震えている。社長は素早く立ち上がり、ドアの横に身を隠す。麻生も真似して、壁にへばりついていた。
けれど奈々美は、なぜかリビングの床に正座していた。
来るならこいと覚悟を決めた。接着剤なんて、床にまかせない。この体で接着剤を浴びてもいいから、阻止してやると決めていた。
社長は必死で手招いている。だが奈々美は動かなかった。
ドアが開いた。その途端に、男は異変を感じてうろたえている。部屋には3人分の熱気がこもっていて、そこに人がいると気がついたのだ。
「なにしにきたんですか」
奈々美は懐中電灯で男を照らし出す。
「燃やすつもりですか。そんなことはさせません」
それを聞いた男は、ひーっと悲鳴を上げて逃げ出した。そこに素早く社長がタックルをかける。麻生はスマホを手にして警察に通報していた。
男は社長のタックルをかわし、急いで玄関から外に逃げだしていた。その背中に向けて、奈々美はカラーボールをいくつも投げつけた。
餅まきのシーンが脳裏に蘇る。ピンクのお餅を投げてと、父にねだった。ところがピンクのお餅は手で受け取れず、奈々美の頭を直撃したのだ。
いつか餅まきをしたい。自分の家の建て前で、楽しみにしていてくれる人たちに向けて餅投げをしたい。
家を手に入れる幸せを、いつか自分も味わいたいと奈々美はこのとき思っていた。

背中を真っ赤に染めた男は、それから数分もたたないうちに警察に逮捕された。証拠の品は、現場に残された接着剤の缶だ。逃げるときに男は放り出していったのだが、幸いなことにこぼれて新築の床を汚すことはなかった。
社長が警察に事情を説明している。パトカーのピカピカ光る警告灯を見ていたら、麻生がつまらなそうに言い出した。
「もう少しひねりが欲しかったな。元クロス張り職人、埼玉から少し前にやってきたって、俺たちの推理のまんま」
「田中さんちにいたのかも、確認してもらわなくちゃ。もし勝手に住み着いてたなら、田中さんちお掃除してあげたいな」
「あーっ?なに、その優等生発言。むかつく」
「だって入院中に、誰かが勝手に住んでたんですよ。気持ち悪いじゃないですか」
「気持ち悪いままにしとけよ。そうしたら売る気になるだろ」
「あっ、そうか。そういう考え方もありますね」
ともかくこれで解決した。明日からは、またしっかり弁当を作ろう。夜にはゆっくりお風呂に入り、連続ドラマも忘れずに観る。
休日にはまた山歩きがしたい。鎌倉、高尾山、那須高原、鋸山、関東にはいくつも奈々美の好きな山歩きコースがあるのだ。
「こんなオール、2度としたくねぇ」
麻生はまだぶつぶつ言っている。奈々美は言ってはいけないとは思わず、つい口にしてしまった。
「麻生さんって、歯ぎしりすごいんですね。歯医者いったほうがいいですよ」
「……なに……聞いてたのか」
「あれは、ちょっとね」
歯ぎしりのことは、言われたくなかったらしい。麻生は下唇を突き出し、じろっと奈々美を睨み付けてくる。
「歯医者さん、近くに4軒もありますよ」
にこやかに微笑みながら、奈々美は言った。人の弱みというものは、握るとそれなりに楽しいものなのだ。
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