第4話 失敗・・・ 宅地建物取引士 奈々美の奮闘記

葉奈々美はスマホの画面を見ながら、数日前の楽しい山歩きを思い出していた。いつもは勤務する『不動産ステーション』で、宅地建物取引士として忙しく働いている。大好きな山歩きには、休日のたびに出かけたいと思うが、なかなか行けないのが現実だ。
「休みの日は、掃除に洗濯だもんな」
 もっと効率的に時間は使えないものだろうか。休日に掃除と洗濯に追われないように、普段からまめにやっておけばいいのだろうが、やはりシーツや布団カバーなどの大物の洗濯は、家にいるときしかやりたくない。
 掃除は嫌いではないので、始めると次々と気になる場所がでてきて、結局一日中、洗剤と雑巾を手に床を磨いていたりする。
「時間の使い方が下手なのかな」
 20代の女性にしては、奈々美はコスメや服にはあまり興味がないので、ショッピングに行きたい気持ちはそんなにない。それより関東近県のそれほど高くない山を、のんびり登るのがなによりもの楽しみだった。

 スマホの画面には、富士山を背景に笑っている四人の姿が映っている。一人は奈々美の顧客となった田中さんの孫で、カナダ人ハーフのアンナだ。その横には、奈々美の大学時代の山歩き仲間、安藤瑠菜の姿があった。
 そしてなぜか奈々美の横には、疲れた表情の麻生が立っている。アンナの姿を一目見た麻生は、どうしても一緒に行きたいといって参加したのだが、どうやら山歩きは苦手らしい。この写真を撮るころには、かなりよれよれになっていた。
「麻生さん、スタートのときはマシンガントークだったけど、この写真撮ったころは無口な人になってたなぁ」
 美人のアンナの前でいいところを見せたかったのだろうが、そうはいかなかった。むしろアンナのほうが山歩きに馴れていて、足手まといの麻生のことを気遣っていたくらいだ。 麻生はときどき奈々美に意地悪なことを言うけれど、あの山歩き以来大人しくなった。奈々美がすぐに話題を、そういえば富士山でぇと切り替えると、言い返せなくなるからだ。
 一人でにやにやと笑っていたら、ドアが開いた。社員が戻ったときは、必ず声かけするような習慣になっている。ただいま戻りましたという声がなかったので、客だと思った奈々美はすぐに立ち上がった。
「こんにちは。本日はどのようなご用件でしょうか」
 にこやかに話しかけた奈々美だが、すぐに笑顔が凍り付いてしまった。
 まずいことにその客は、奈々美にとってストライクゾーン、好みのタイプの男性だったからだ。
 奈々美にとって魅力的な男性の基準は、山で遭難したときにこの人といればだいじょうぶと思わせてくれるような逞しいタイプだ。
 目の前にいる男は、まさにそんな風貌をしている。髪は短めで、顔はきりっと男らしい。そしてスーツを着てはいたが、かなりがっちりマッチョな体つきをしていた。
「ああ、事務所を借りたいんだけど、ネットにでてたやつ」
 ぼそっとしゃべる声は低音で、男の外見に相応しい。
「事務所ですか? どちらの物件をごらんになりましたか?」
 椅子をすすめながら、奈々美はいつになくドキドキしている。こういったタイプの男性は、奈々美のような元気だけが取り柄のような女子より、助けてオーラをいつもだしているか弱い女性が好きだ。自分は最初から相手にされないとわかっていても、やはり奈々美もこんなときは女子らしく、ドキドキしてしまうのだ。

「あの3階建ての古いやつ」
「築40年の物件ですが、こちらでよろしいでしょうか」
 奈々美が手がけた狭小住宅の隣りのビルの1階が、賃貸として出ている。元はオーナーが自分の会社の事務所として3階まで使っていたが、廃業したので貸し出した。1階を借りていた業者は、地方に本社を移転して出ていったのだが、その後の借り手がなかなか見つからなくて困っていた。
「トイレと給水設備などは、リフォームしてあります。エアコンは3機入っていますが、ご希望でしたら増設可能です」
 ビルの室内の写真を見せながら、奈々美は飲み物も出していなかったことに気付いた。
「あ、なにかお飲み物は、いかがですか。コーヒーとお茶とか……」
「んっ、麦茶ある?」
「えっ……は、はい。お持ちします」
 セレクトした飲み物が麦茶となると、さらに好感度アップだ。

「麦茶……だなんて、素朴で素敵……」
 奈々美は冷蔵庫の中から、年配社員の堂島が自分用に買ってある麦茶のボトルを取りだした。
「堂島さん、後でお返しします」
 麦茶を持っていくと、男はビルの写真と印刷されたグーグルの地図を見比べていた。
「上は、誰か入ってるのかな?」
「はい、学術関係の出版社が2階に入っています。3階はその出版社の倉庫になっています。社員は皆さん穏やかな方ばかりですよ」
 男は麦茶の入ったコップを受け取ると、あっという間に飲み干した。そして残った氷を口に含み、ばりばりとかみ砕いている。
 好みだ、ますます好みのワイルドさだ。思わず独身ですかと聞いてしまいたくなる。
「お借りになるのは、ご本人様ですか?」
 いつものようにアンケート用紙を渡したが、まだ一文字も書かれていない。男の名前もわからなくて、奈々美は男をなんと呼んでいいか戸惑った。
「いや、叔父の会社だ。体調悪くてね。俺が代わりに動いてる」
「そうなんですか。どのような会社を経営なさってるんですか?」
「輸入品、東南アジアと中国の健康食品とかだな」
「そうですか。もしこの物件が気に入られましたら、こちらにご記入願います。他に賃貸希望のお客様がいらした場合、連絡させていただきますので」
 アンケート用紙を見て、男はしばらくためらうような様子を見せた。個人情報は知られたくないということだろうか。
 けれどすぐにすらすらとごつい角張った字で名前と電話番号を書き始めた。
『薄井清』、年齢は32歳。少し年上だけど、十分奈々美のストライクゾーンだ。
「俺の一存で決められないから、叔父さんに相談してから電話する。あんたの番号は」

「は、はい」
 奈々美は急いで名刺を渡した。客からの電話は、いつでも楽しみだ。たまには期待とは大違いのクレームだったりすることもあるが、成約のための電話を受けるのは楽しい。ましてやその相手が、好みのタイプとなったらなおさらだ。
 薄井の勤務先は叔父の会社なのだろうか、『有限会社・アジア健康物産』となっている。住所は新宿だった。
「会社、新宿なんですか?あの辺りは、家賃お高いでしょうね」
「ああ、高いな」
 返事はいたって短い。いつも余計なことばかりしゃべる男たちを相手にしているせいか、そんな素っ気なささえ魅力的に思えてしまう。
 薄井が帰るとき、奈々美は頭を下げて見送りながら、ぜひもう1度、成約のために来てくださいねと祈っていた。


 契約したいという申し出は、その日の夕方に届いた。残念なことに電話に出たのは薄井の叔父本人らしく、嗄れた声の高齢者のようだった。
 病気のせいでこちらにはこられないから、書類を送ってくれと言われた。奈々美は会社の住所あてに、急いで契約に必要な書類の一覧を添えて送った。
 書類が戻ってきたら、そこで簡単な審査が入る。事務所の場合、契約した会社が倒産したりするトラブルがあるので、間に必ず保証会社を入れるのだ。
 社長の泉田啓一に、退社前に報告した。
「あの古いビル、借り手が付きました」
 アンケート用紙を見せた途端に、社長の眉が曇った。
「どんな客が見にきたんだ?」
「……若い男性ですけど。叔父さんの会社だと言ってました」
「で、ビルの内覧していったのか?」
「いいえ……」

 そういえば案内をしていない。ただ物件の説明を受けただけで、すぐに帰ってしまった。まさかその日のうちに、物件を見もしないで契約したいと言ってくるとは思わなかったのだ。
「あの物件、保証会社入ってたっけ?」
「はい。保証会社の書類も同封して送りましたけど……」
「うーん、ううーん、その客、他に相手するやつはいなかったのか?」
 その言葉には、さすがに奈々美も傷ついた。未熟なりに、日々努力しているつもりだ。なのに社長は、奈々美ではビルの賃貸契約も結べないと思っているのだろうか。
「わたしではまずかったでしょうか?以前、店舗の賃貸契約も、事務所の契約もしたことありますけど」
「男の社員はいなかったのか?」
「みんな外回りに出てました。わたし、一人です」
 経理の女性社員、間中ですら銀行に出向いていなかった。あのときは奈々美しか社にいなかったのだ。
「若葉ががんばってるのは認めるがなぁ。まだちょっと、客を見分ける能力がなぁ」
 奥歯になにかはさまってますよと、つい余計なことを言いたくなってくる。言いたいことがあるなら、どんないやなことでもはっきり言って欲しいのが奈々美だ。
「社長、わたし、なにかやっちゃいましたか?」
 ストレートに訊いてしまった。すると社長は、困ったような笑顔になった。
「保証会社が調べてくれても、完璧とはいかない。この会社の住所、新宿の歌舞伎町のど真ん中だ。そんなところにあるアジアの物産会社って、なんかあやしい。しかも誰もいないときを見計らったみたいにやってきた、若い男ってのもな」
「……すいません。学習能力がなくて、言葉の意味が……」
「ああ、つまりあっちの人、ヤクザさんかなーって、疑ったんだ」
「えっ……?」

「ヤクザさんには、物件貸せないんだよ」
 ごつごつした手、鋭い眼光、自分の名前を書くのにためらった様子。そんなことを思い浮かべて、奈々美はごくっと唾を飲み込む。
 好みのタイプだったから、すっかり舞い上がってしつこく訊くことをしなかった。そのせいで薄井は、奈々美が担当なら楽に騙せると思ったのかもしれない。
「若葉だって、それぐらいは知ってるだろ?」
「あっ……そ、それはそうですけど」
 人を見かけで判断してはいけない。そう親には教わった。薄井の見かけは、奈々美にとってはヤクザには見えなかったが、世間一般からいったらどうだろう。麻生だったら、すぐに怪しい野郎だと見抜いただろうか。
「本当にヤクザさんなら、保証会社に引っかかりますよね」
「うーん、最近はヤクザも巧妙だからな、金を貸してる素人とかにダミーをやらせることがあるんだ。この薄井って男の叔父さんってのが、本当にその会社を経営しているのかも怪しい。ちょっと輸入の真似事みたいなのしているだけで、会社としては成立しちまうからな。名前だけの社長なんて、簡単になれる」
「まさか、そんな、あの古いビルですよ。そこまでして借りたいですか?」
「古いから借り手もなくて、審査も甘くなる。そう思われたのかもな」
 さーっと、ざーっと、ざざざーっと血の気が引いていくのがわかる。社長の勘はいつもよく当たる。今回も当たっていそうだった。
「保証会社の返事待ちだな。それまでにまた薄井が来たら、俺に連絡しろ」
「は、はい」
 人を見る目がないだけじゃない。男を見る目もないのだと、奈々美は悲しくなってくる。薄井に抱いた胸のドキドキは、別のドキドキに変わっていた。


 奈々美が売った二軒目の物件、狭小住宅の依田夫妻から、その日の夕方新築祝いのパーティに招待された。こういった招待には、気の利いたプレゼントを持って必ず参加する。奈々美はデスク周りの掃除ができる小物を幾つか選んでいた。
「あら、若葉さん。来てくれたの。ありがとう」
 ふくよかな依田家の奥さんは、奈々美を見ると細い目をさらに細くして微笑んだ。この奥さん、在宅で仕事をしているといっていたが、『マルニャン』という人気マンガの作者だったのだ。
 奈々美はこれまでマンガというものは、紙にペンで描くものだとばかり思っていた。ところが今は、すべてパソコンで仕上げることが可能らしい。奥さんはペンもインクも使わない漫画家なのだ。

 旦那さんはWEBデザイナーで、デスクのスペースには2人のパソコンが仲良く並んでいた。
 部屋が狭いので立食パーティ状態になっている。奥さんはひたすら食べて飲んでいる。お客の世話をしているのは旦那さんだ。きっと日常もこんな調子なんだろなと、奈々美は微笑ましく二人を見ている。
 するとそこに初老の男性が、ワインを数本抱えて現れた。隣のビルにある出版社の編集長だ。
「どうも『不動産ステーション』の人ですね。放火事件があったとき、泊まり込みでこの家を守ってたって、うちの編集部でもちょっと話題になってますよ」
「え、えええ、知ってたんですか?お恥ずかしいです」
「熱血不動産ですね」
 編集長にほめられて、奈々美の顔は赤くなる。
「1階、ずっと空いてるけど、誰か決まったのかな」
 にこやかに話しているが、編集長の表情が少し心配そうになったのを奈々美は見逃さなかった。
「まだ決まってませんけど。空いていると物騒ですか?」
 ビルの一室が空いていると、イタズラされたりすることがよくある。特に古いビルだと、落書きされたりして大変なのだ。幸いこのビルは、2階から上が借りられていたせいか、あまりひどいイタズラはされていない。
「いや、この間ね。派手なジャージ姿の若い男の人数人と、白髪頭の人が来てね。1階の部屋を見ていたから」
「ジャージ、ですか……」

 しかも派手なジャージだ。奈々美の脳裏に、故郷の町にいた田舎くさいヤンキーの姿が蘇った。
「どうもああいう人たちは苦手でねぇ。この人たちが入居したらどうしようと思ってたんだよ」
 学術書の編集長だって、ヤクザらしい人の見分けはついている。薄井に対してなんの疑いも抱かなかった自分を、奈々美は恥じた。
「あの人たちにも人権はあるってわかっているけどね。もし抗争とかなって、流れ弾とか飛んできたら困るよね。依田さんち、これから赤ちゃん、生まれるかもしれないし」
 編集長はすでに依田夫婦と仲がいいらしい。奥さんの出産計画を聞かされているようだ。
 3階は子供部屋として使えるように設計した家だ。依田夫妻としては、子供を作ってもいいなと思い始めただろう。
 小さな子供と、1日家で椅子を並べて仕事している夫婦、そんな平和な一家に流れ弾でも飛んできたら大変だ。
 保証会社がこの会社は不合格と言ってくれれば、それを口実に契約をしなくてすむ。けれど合格してしまったらどうするのだ。薄井の叔父の会社がヤクザのダミー会社だとしても、それを証明する方法が奈々美には思いつかない。
 もしかしたら隣のビルの1階が、ヤクザの事務所になってしまうのだ。
「わたしのせいで……」
 奈々美はどよーんとした気分で呟くと、窓から隣のビルを眺める。夜になっていたが編集部には灯りが点いていた。けれどそれもすぐにふっと消えてしまった。地味な学術関連の出版社だ。残業などほとんどしないで、編集部員は帰ってしまう。
 依田家に隣接しているアパレル関係の会社も、遅くまで残業はしない。そうなると依田夫婦だけで、危ない集団が出入りする事務所の隣りで夜を過ごすことになる。
 そんなことにはさせたくない。熱血不動産社員としては、大切なお客様の安全は守りたかった。


 数日後、保証会社の審査結果が届いた。
「……受かってる……」
 嗄れた声の薄井の叔父は、暴力団関係者ではなかったらしい。会社も設立年月日が新しいとはいえ、健全な会社のようだ。
「社長の考えすぎなんじゃないかな」
 奈々美は薄井の叔父の署名と捺印がされた書類を確認していったが、1枚の書類のところで手がとまった。
「これにちゃんと署名、捺印しているもの。だいじょうぶだよね」
 それは「暴力団などの反社会的勢力ではないことの証明と確約書」だった。

 
 暴力団排除条項とは

テナント賃貸借契約における暴排条項とは、賃借人が、暴力団や反社会的勢力と無関係であることを保証するものです。万が一保証に反することが明らかになったら、賃貸契約は解除が可能です。

特に、暴力団事務所として利用する場合など、暴力的な行為によって貸オフィスの保管義務に違反する事態となっていた場合には、保管義務違反による解除を通知することが考えられます。

取引先に対し,暴力団関係者でない旨の表明保証条項や、暴力団排除条項が定められた契約書の提出を求めることによって,暴力団員かどうかのチェック機能はありますが、自分から暴力団関係者だと真実を告げる人はいません。ですから書面だけでは、真実はわかりにくいのです。

自分で検索してもよくわからないと限界を感じたら、所轄の警察署や暴力団追放推進センター等の外部専門機関に協力してもらいましょう。


 今は法律が、暴力団との契約をしないようにすすめてくれている。暴力団排除条項に違反すれば、相手を追い出すことはできるのだ。
 けれど実際に暴力団を追い出すとなったら、いろいろと大変だろう。どんな仕返しをされるのかと、怯えることになるかもしれない。
 パソコンで『薄井清』と検索をしてみたけれど、あの薄井らしき人物はでてこない。まったく無関係の人ばかりが出てきていた。
「契約成立……だよね」
 奈々美は席を立ち、社長のデスクに向かった。
「社長、確認お願いします」
「なんだ、元気ないな。昼飯、食いそこねたのか?」
「いえ、社長にいろいろ言われて、調べてみたんですけれど、保証会社も通しちゃったんで、あのビルの事務所、賃貸契約可能になりました」
「通ったんだ?」
「はい……」

 薄井が来た日、あのビルを怪しい一団が下見していたと社長に言うべきだろうか。奈々美がうつむいたままじっとしていると、社長はそこで立ち上がった。
「間中さん、堂島さん探してくれないか? すぐに戻って来いって伝えてくれ」
 経理の間中は、そこですぐに堂島に電話をする。
「相手が、あの堂島さんじゃ不満だろうが、新宿でデートしてこい」
「はっ?堂島さんとですか?」
「経費で飯、食ってきてもいいぞ。中村屋のカレーでも食ってこいよ」
「カレーですか」

 わざわざカレーを食べに新宿まで行くのか。そんなはずはない。意味がわからなかったが、奈々美は外出の用意をした。
 そうしているうちに、堂島が戻ってきた。髪の毛に不自由していて小太りの堂島は、なぜかこの社の社長によく間違われる。年齢が50代で、40代の社長の泉田よりも年上だからだろうか。
 堂島と社長は、こそこそとなにか話し合っている。どうやらこれから出かける先の打ち合わせらしい。
「いいなぁ、若葉ちゃんとデートか」
 そう言うと堂島は、奈々美が手にしていた薄井の書類を寄越すように言ってきた。
「社長が怪しいと思ったときは、徹底的に調べるんだ。それが我が社の方針だよ。まずはこの『アジア健康物産』にあたってみよう」
「は、はい」
 保証会社が調べたのに、またこちらでも調べるというのか。そこまでするからには、やはり社長は薄井を疑っているのだ。


 頭上にはゴジラの巨大な顔がある。外国人観光客が足を止めて、スマホをかざして写真を撮っていた。
 ぼうっと歩いていても、カラオケの客引きが寄ってくる。仕事中で地味な黒のスーツ姿だ。遊びに来てるんじゃないのが、見ればわかるだろうと言いたいのを堪えて、黙って堂島の後をついて歩いていった。
「住所はここだな。確かに会社ではあるらしいが」
 薄汚れたビルの2階に、『アジア健康物産』という小さな看板があった。けれど表から見ただけでは、なにを扱っているのかよくわからない会社だ。
「書類、届けに来ましたって、入りますか?」
 奈々美の提案に、堂島はすぐに首を横に振る。そして素早く手にした小型のカメラで、『アジア健康物産』の写真を撮った。するとそれを見ていたかのように、狭い階段を若者が駆け下りてきた。

「なに撮ってんだ」
 堂島を睨み付けて、いかにも脅すような口調で言ってくる。
「すいません。不動産賃貸の保証会社、『安心リース』と申します。『不動産ステーション』さんの賃貸物件をお借りになるそうで、信用調査中でして。よければ社内の撮影をお願いしたいのですが」
 ここで堂島の意外な面を発見した。社にいるときは、大好きなプロ野球の話ばかりしている。それともなければ、嫁と姑の戦いにいつも巻き込まれて困るといった愚痴だ。ちょっと情けないお父さんというイメージの堂島が、今日はまるでベテランのスパイのように、ヤクザの若者に話しかけていた。
「会社の登記関係はもう調べさせていただきました。新しい会社なんですね。事業拡大でお引っ越しですか?」
 いかにもにこやかに『安心リース』の社員になりきっている。
「今は、引っ越しの前で中がごちゃごちゃだ。社長もいないから、後にしてくれ」
 この若者は、少しは利口らしい。保証会社に怪しまれたら、次の物件が借りられなくなると知っているのだろう。言葉遣いが心持ち優しくなっていた。
「そうですか。会社の所在地を確認いたしましたから、問題はございません。失礼いたしました」
 ぺこぺこと何度も頭を下げて、堂島は奈々美とともにその場から急いで立ち去った。
「堂島さん、なんか社にいるときと雰囲気違いますね。プロって感じです」
 再びゴジラの下に戻った堂島は、おかしそうに体をゆすって笑う。
「俺はね、『不動産ステーション』の不当要求防止責任者なんだよ」
「……?」

 そんなの宅建の試験に出たかしらと、奈々美は頭を悩ませる。すると堂島は、すぐに教えてくれた。
「暴力団と付き合うかもしれない会社では、社員の1人に講習を受けさせるんだよ。暴力団に対して、どういう対応をしたらいいのか学ぶ講習だね」
「へぇーっ、そんなのがあるんですね」
「以前、新宿の不動産会社で働いてたんだ。そのときから不当要求防止責任者の講習は受けてる」
「ここで働いてたんですか?大変だったでしょう?」
 奈々美が担当している地域のように、平和な場所ではない。借り手は問題のある人間だらけだ。堂島はさぞや苦労しただろう。
「ああ、若い頃はね、それなりに楽しかったが、会社が歩合性でね、働きすぎて体壊しちまったんだよ」
 物件を売ったら売っただけ、給料にプラスされるのが歩合性だ。それだとかなり稼ぐトップクラスの営業もいるだろう。堂島もその昔は、稼ぐ営業マンだったのだろうか。
 そこで堂島はタクシーをつかまえ、奈々美に乗るようにうながした。
「今頃になって、あの頃のコネが生きるとはね」
 そう言って乗り込んできた堂島は、新宿警察へとタクシー運転手に指示していた。


 目の前にずらっと男の顔が並んでいる。どれも睨み付けるような視線を向けていて、見ているだけでごめんなさいと言いたくなってしまう威圧感だ。
 堂島はなにか特別なコネを持っているらしい。新宿警察署の一画で、奈々美は地元暴力団の構成員の顔写真や、全身写真を見せられていた。
「覚えてるかい?薄井清ってやつの顔。名前で調べても出てこないから、恐らくあの会社の代表になっている薄井の親戚かなんかの名前、勝手に使ったんだろう」
 堂島は買ってきたペットボトルのお茶をゆっくり飲みながら、次々と現れるいかつい顔を奈々美と一緒に見ていた。
「『アジア健康物産』なんて会社の名前からして、怪しいよね。よく美術品だの健康食品だのの中に、麻薬を隠して密輸するのがあるだろ。そのための会社なんじゃないかって、つい疑いたくなっちゃうよな」
「そうですね。あの会社見たら、ますます疑わしくなりました」
 社長が最初に怪しいと思ったのは、やはり『アジア健康物産』が扱う品物からだろう。その勘は当たっていたようだ。どう見てもあの会社で、健康食品を大々的に扱っていたとは思えない。

「でも、堂島さん、よくこんなもの見せてもらえましたね」
「昔、警察に協力して、何件か暴力団が拉致した人を隠している部屋とか、探してあげたからね」
「す、すごい。ドラマみたいです」
 そんな武勇伝があるのに、社では決して語らない。そういう奥ゆかしさには好感が持てた。
「あれ?あ、ああ、この人です」
 髪が今より少し長いが、明らかにあの薄井清だった。
「え、えええ、大山和彦ってなってますよ。名前、違うんですけど」
 そこには大山和彦、蟇口組系青竜会、舎弟の文字があった。恐喝と暴行で3度の逮捕歴ありとなっている。
「ひ、ひぇーっ、なに、これ、舎弟って、なにっ」
 一瞬でもいい男と思ってしまった。麦茶を飲むワイルドな姿に、惚れそうになってしまった。けれど画面の中の男の姿は、とんでもない怖いヤクザに変わっていた。
「大山か……そろそろ独立するのかな。隠れ蓑の会社事務所を、自分の組の事務所にするつもりだったのかもしれないね」
「独立って、なんですか?」
「親分のところから分家するんだよ。上納金を払わないといけないが、稼いだだけ自分の取り分になるからね。才能のあるやつなら、独立したがる頃だろ」
「堂島さん、ヤクザに詳しいんですね」
 もし堂島が担当していたら、薄井こと大山は事務所を借りたいとは言わなかっただろう。適当なことを訊いて、すぐに帰ったはずだ。にこやかなおじさんに見えるが、ヤクザだったらすぐに堂島なら自分の正体を見抜くと悟ったはずだ。

「わたしが担当したから、簡単に借りられると思われたみたいです」
「そうだね。若葉ちゃんみたいに、若い女の子がヤクザ業界のことを知ってるとは思えないものな。もしかしたら若葉ちゃんが1人になる時間を狙って、来店したのかもね」
 それは怖い。そんなことができるなら、これからも同じように1人のときを狙われるかもしれない。経理の間中はほとんど社にいるが、たまに銀行に行ったり集金に出かけたりする。男性社員は営業で外回りがほとんどだ。
 社長は知り合いになにかあると、すぐに駆けつける、好奇心と親切心のかたまりだから、あてにならない。
「それじゃコピーをもらっていこう。俺は世話になった刑事さんに、大山がうちの貸してる事務所を狙ってるって話をしてくるから」
「はい……」
「経費でなに食べてきてもいいそうだ。若葉ちゃん、帰りに焼き鳥どうだい?」
「鶏……こ、けっこうですね」
 あまりにもつまらないオヤジギャグだ。なのに堂島にはバカ受けしていた。


 薄井には丁寧なお断りの文面を書いて、申し込み用紙とともに送り届けた。あからさまに、あんたのところがヤクザだから今回はお断りとは書けない。曖昧な表現だが、当社の審査の結果とだけ書いておいた。
 ビルのオーナーには、すでに説明してある。いつまでも空室だと家賃収入が入らないので、オーナーは最初文句を言っていたが、借り手を選ぶべきだと堂島が熱心に説得してくれたのでどうにか収まった。
 こうなったらどんどん広告を流して、借り手を探さないといけない。奈々美がパソコンに向かって広告文の作成をしていたら、来客があった。
 白髪の高齢男性だ。手には杖を持っている。スーツ姿だが、あまり似合っていない若い男が一緒に来ていた。
「いらっしゃいませ……」
 いやな予感というものは、たいがい当たることになっているが、今回も大当たりしそうだ。
「どのようなご用件でしょう」

 にこやかに椅子をすすめ、アンケート用紙を渡そうとしたら、高齢男性は嗄れた声で名前を告げてきた。
「薄井ですが……保証会社の審査は通ってるのに、どうして事務所が借りられないのか、知りたいと思って来たんですよ」
 薄井は疲れた様子で椅子に座り、奈々美の目を見ずにぼそぼそと話す。
「うちの会社ができたばかりで、信用がないってことですか?保証会社が入ってるんだから、なにかあっても大家さんに家賃は入るはずだが」
「申し訳ありません。企業実績が、よくわからなかったものですから、当社の基準にそぐわないと判断させていただきました」
「あんたが決めたのかい?」
「社の会議にかけての結果です。当社としても、オーナー様から管理を任されている以上、企業実体のはっきりしない会社を、ご入居させるわけにはいきませんので」
 『アジア健康物産』のことは調べたが、まだ決算も終えていないできたばかりの有限会社だ。保証会社がこんな会社を通したのは、保証金目当てとしか今は思えない。社長も怒っていて、次からは保証会社を替えると言っていた。
「頼むよ。今の事務所を、今月中に出ないといけないんだ。高い家賃は払えないし、この物件が最適なんだが」
 そこで奈々美は、違和感を覚えた。月末に追い出されるなら、薄井も必死のはずだ。なのにその必死さが、なぜか伝わってこない。まるで台詞を読んでいる、下手な素人役者のようだ。
 社長も堂島も、薄井はダミーの社長だと言っていた。今日も大山に命じられて、ここまでやってきたのだろうか。
「申し訳ありませんが、当社ではお引き受けできませんので」
「朝鮮人参とか、霊芝っていうキノコの加工品を扱う会社なんだよ。利益はすぐにでるし、資本金もあるんだ」
「そうおっしゃられても……」
 どうおっしゃられても、言うことを聞くわけにはいかない。奈々美はがんばれ自分と励ますつもりで、両手を拳にしてぎゅっと握りしめた。
 そこで若い男に電話がかかってきた。きっと大山が様子を知りたくて、電話してきたのだろう。若い男は電話のために外に出ていった。
 すると薄井の顔つきががらっと変わった。明らかに怯えた様子だ。
「頼みます。事務所を貸してください。そうしないと、私もいろいろとまずいことになるんです」
 必死さが違う。これは本物の必死な懇願だ。

「警察にいかれたらどうですか」
 奈々美は外の様子をうかがいながら、小声で話した。
「助けてくれますよ。よろしければ、新宿署の知り合いの刑事さんを紹介します」
 奈々美に言われて、薄井は驚いたようだ。
「知ってたんだ」
「調べました。大山に利用されているんでしょ。どう頼まれても、わたしはこの平和な地域に、危ない人たちを呼び寄せたくありませんから」
「で、でもどうすればいいでしょうか。ここを借りないと、私、本当にまずいんですよ」
「どこを借りても、まずいんじゃないですか?勇気を持って逃げ出さないと……」
 若い男が戻ってくる。すると薄井は、また棒読みのように繰り返した。
「会社に金ならあるよ。なんならビルごと買ってもいい。いくらで売るのか、大家に交渉してくれ」
 奈々美は、先日、堂島と一緒に訪れた新宿署の刑事の番号をメモして、薄井が手にした書類の中にさりげなく紛れ込ませた。
「当社では、これ以上どうおっしゃられても、契約することはできません。お引き取りください」
 毅然として言うと、薄井はよろけながら立ち上がる。そして書類の入った袋を、中身がこぼれ出ないようにしっかりと抱きしめていた。
「それじゃ、今日のところは帰りますがね、こういう差別的なことが通用すると思ったらだめだよ」
 去り際には、こう言えと教えられたのだろうか。少し強い口調で言ってきた。奈々美は頭を下げて薄井を見送ったが、外に出た薄井がそれとなく書類の袋を振ってサインをしたのを見逃さなかった。

「気がついてくれたんだ……」
 薄井も利用されている被害者なのだ。借金があるのか、なにか問題を起こしたのか知らないが、自分の身をこれ以上危険にさらして欲しくない。
「すごいわね、若葉さん。あの人たち相手に、堂々としていたわ。見直した」
 間中が近づいてきて、奈々美の肩を優しく叩く。すると奈々美は、へなへなとまた椅子に崩れ落ちてしまった。
「いやぁーっ、なんかすごい緊張感でした」
「怖かったの?」
「そういうんじゃなくて……なんか、ドキドキです」
「変な人たちがきたら、連絡しろって社長に言われたの。連絡したのにまだ来ないんだから、あてにならないわね」
「だいじょうぶです。わたしでも、どうにかやれます」
 そうは言ったものの、相手が薄井でなく大山だったらどうだろう。さすがに本物ヤクザの迫力で迫られたら、思わず事務所はお貸ししますと言ってしまいそうだ。
「若葉ーっ、無事かっ!」
 社長が勢いよく入ってくる。走ってきたのか、息が乱れていた。
「だいじょうぶですよ、社長。若葉さん、すごく落ち着いていて、とてもいい対応でした」
 間中にほめられて嬉しいが、まだ椅子から立ち上がる元気がない。やはり特別な世界の人たちを相手にするには、こちらも特別なエネルギーが必要になるのだ。


 悪いことのあった後には、運命の神様も気を遣ってくれるのか、いいことがやってくる。薄井が来てから数日後、奈々美はあの古いビルの1階を、ぜひ見たいというメールを受け取った。打ち合わせに来店をうながしたら、『現地集合でお願いしまーす』と、会社に送られてきたメールには書いてある。
 申し込んできたのは、奈々美と同じ年頃の男性なのだが、あまりにも軽いこの文面はないだろうと、奈々美は不安になってきた。
 ビルの前で待っていると、外国製のスクーターに乗った若者がやってきた。ヘルメットを取ると、その下の髪は一部が青く染められている。
「初めまして。『不動産ステーション』の若葉と申します」
「どうもぅ、明石でぇす」
 服装も変だ。奈々美の故郷の町では、こんな姿の若者なんて1度も見たことがない。着ているものの色がカラフルで、見ているだけで疲れてしまう。

「どうぞ……」
 中に案内したが、ここをなにに使うつもりか、まだ訊いていなかったことを思い出した。
「どのように利用されますか?アパレル関係ですか?」
 近くにあるアパレル会社の紹介かと思って訊くと、明石は身をくねらせて笑う。
「やぁだぁ、ボクってアパレルのイメージ?ドクモにスカウトされたことあるけど」
 こんなくにゃくにゃした男を、読者モデルとして使うようなファッション誌を、奈々美が読むことは一生なさそうだ。
「あの、他の人には秘密にしてね。ここでね。カワウソカフェをやるの」
「……?」

 ヤクザの事務所以外ならなんでもいいと思ったが、それにしてもカワウソカフェとはいったいどんなものなのだろう。
「カワウソ……ですか?」
「そうだよ。大きなチューブ型の水槽を設置してね。流れるカワウソちゃんを見ながら、お茶するの」
「カワウソ…が、かわいそー、なんちゃって」
 最悪のオヤジギャグだったが、明石は大げさに受けている。
「一日中流れていたら、カワウソが疲れませんか?」
「そんなことないよぅ。流れるの大好きなんだから。コツメカワウソって、今、一番人気のペットなの。飼いたい人、いっぱいいるけど、飼育方法が難しいんだよね。だったらカフェで、1日中その姿を見ていられたら最高でしょ」

「そ、そうですね」
 発想はよさそうだが、はたしてそれでお客は呼べるのだろうか。奈々美の不安が伝わったのか、明石は誇らしげに言ってきた。
「あ、保証人はママがいるから。『明石』って料理屋、知ってる?あそこ、うちのママがやってるんだ」
「そうなんですか?」
 何千万もするような盆栽がいくつも飾ってあり、廬山人の皿などを使うという評判の高級割烹、それが『明石』だった。明石はそこの息子だというのか。
「オーナーも『明石』の息子さんだと知ったら、喜ばれると思います」
「そうかなぁ。じゃあ、すぐに契約して、工事に入っていい?」
「保証人様の署名と捺印もいただきませんと」
「それじゃあ、後でうちにご飯食べにきて。ママを呼んでおくから」
 母親はこのおかしな息子が、なにをしても許してしまうのだろうか。どう考えても、この息子が店をだせるほどの資金を持っているとは思えないから、おそらく出資者は母親なのだろう。
「それでは1度、社に戻って、必要な書類を持って改めてお伺いします。ご自宅のほうがよろしいですか?」
「ママのお店にしよっ。ボクもご飯食べたいし。そうだ、これ、オーナーさんとみんなで使って」
 明石はバッグの中から、2つの厚みのある封筒を取り出す。
「なんでしょうか?」
「お食事券」
「汚職事件……いや、そんないただけませんよ、そんな」
「いいの。どうせ、これからいっぱいお世話になるし。若葉さん、ウナギと和牛ステーキ、どっちが好き?」
「そ、そんな究極の選択、無理です」
「どっちもうちのおすすめだよ。どっちか決めておいてね」
 頭の中で牛肉とウナギがぐるぐる回っている。いつの間にかその姿は、夏になると牛丼店に登場する、人気のメニューうな牛になっていた。


 おいしい和牛ステーキをいただいた後、無事に契約は成立した。明石の母はしゃきしゃきした感じの切れ者女将だ。息子が4人いて、このなよなよした息子は末っ子だった。
 胎教というものは、どうやら重要な影響のあるものらしい。今度こそ女の子が欲しいと思った女将は、毎日可愛い女の子をイメージして妊娠中を過ごしたが、生まれてきたのは可愛いが生きがいのような男の子だったのだ。
 困った子ほど可愛いものなのだろうか。それとも息子の将来を心配して、自分の目が届く地元でなにか商売でもさせておきたいと思ったのか、賃貸にかかる費用をすべて女将はその場で支払ってくれた。

 これでもう契約は成立したから、他の誰もあの物件を借りられない。大山も手が出せなくなったのだ。
 支払われたのは現金だ。かなり高額なので、明日まで預かってなどいたくない。奈々美は社に戻ったが、今日はみんな退社した後なのか、閉店していてシャッターが降りていた。
 社員は全員、合い鍵を持っている。鍵の束にはシャッター、店舗、会社の車、金庫の鍵がぶら下がっている。社長はそれだけ社員を信頼しているのだ。
 預かった現金を金庫に入れた。そしてしっかり鍵を掛け、念のためガムテープで封印する。それをスマホで撮影した。
「無事入金しました」
 音声も入れてビデオ撮影する。社長が金庫を開けて、中身を確認するまでこの映像は証拠としてとっておく。
「ふーっ、今週の休みは、絶対に山に行く。シーツとカバーは、コインランドリーにもっていこう」
 お弁当はなんといってもおにぎりだ。歩いて汗をかくから塩分のある梅干しと、体力補強のために肉味噌がいい。
「うーん、シャケも捨てがたいな。野沢菜と昆布、うわー、それも食べたい」
 ついさっき、豪華和牛ステーキ御前を食べてきたばかりだというのに、奈々美の脳内ではおにぎりが踊っている。
 金庫の鍵は閉めた。店内を一応確認し、なにもないので外に出る。そしてまず店舗の鍵を閉め、シャッターを下ろした。鍵を閉めて完了、くるっと向きを変えて歩きだそうとしたら、目の前に大きな影が立ちはだかっていた。
「……!!」

 うわーっと叫びたいけれど、いざとなると声は出ないものだ。目の前にいたのは、あの大山だった。その背後には、派手なジャージ姿の若者が二人いる。
「よう、姉さん……今から帰りかい?」
 バットマンの声優でもやりそうな、低音のいい声なので腹が立つ。
「はい、帰ります」
「送ろうか?」
 大山は身分を隠すことはしないつもりらしい、道路には黒光りするベンツが停まっていた。
「いえ、結構です」
 奈々美は辺りの様子をうかがう。この辺りの商店は閉店が早い。シャッターの降りている店も多く、24時間営業のコンビニまでは少し距離があった。
 助けを呼ぶのは難しそうだ。駅から自宅に向かう人たちの流れはあるが、皆、彼らの風貌を見ると足早になって通り過ぎていく。
「なにかご用でしょうか」

 バッグの中には、いざというときのために唐辛子スプレーが入っている。これは山でクマと遭遇したときのために買ったものだが、最近は自衛のために持ち歩いていた。
 けれど相手は大山一人ではない。コンビニまでの数百メートル、ダッシュで走り抜けることはできるだろうか。
「おかしいよな。他の借り手が来たら、連絡するって話だったろ」
 いつの話をしているのだ。奈々美は顔を上げ、背の高い大山を見上げるようにしてはっきりと答えた。
「御社との契約はできない旨、代表様にお知らせしましたが」
「俺は聞いてねぇな」
「でも借りるのは、代表様の会社でしたよね」
 負けるな自分と励ますため、奈々美は拳を握る代わりに、ぐっとお腹に力を入れる。山はいつだって8合目が一番きつい。それを過ぎたら頂上だ。同じように、この場面を乗り切ればすべてから解放されると信じたい。

「保証会社は通ったんだろう。なのに後から来た他の客を優先した。商売の倫理に反してんじゃねぇか?」
 大山の口調はますます凄みをましてくる。そこで奈々美は堂島の言葉を思い出した。
『若葉ちゃん、幽霊は怖いと思うから怖くなっちゃうんだ。ヤクザも一緒だよ。普通に話せば、向こうも普通に話してくるんだから、必要以上に怖がることはないからね』
 そうだ、自分がとった行動にどこもやましいところはない。契約時に逆に借り手から、和牛御前の接待をしてもらったぐらいが、心苦しいだけだ。
「申し訳ありませんが、大山さん、先に嘘を吐かれたのはそちらでしょう?」
 大山は名前を言われて、微かに眉を吊り上げる。まさかばれていたとは思っていなかったようだ。
「なんだ、その大山ってのは」
「アンケートに別人の名前を書かれましたよね。当社としては信用を第1にしております。虚偽の申し込みには、お応えできませんので」
 言った、言ってしまった。強気の発言しまくりで、奈々美は内心冷や汗が大量噴出の状態だ。
「それに……暴力団排除条項というものがありますから」
 あーあ、ますます強く、はっきりと言ってしまった。奈々美は頭上に暗雲が立ちこめ、落雷と大雨が自分だけに降り注いでいるのを感じる。 
「薄井さんの会社と大山さんがつながっているとしたら、当社としては物件を貸すことはできません」
 こんな局地的落雷なんて怖くない。山で出会う雷は、本当に恐ろしい。世界が一瞬ピンク色に染まり、バリバリと音を立てて大木がなぎ倒されるのだ。

「姉さん、あんた、俺が怖くないのか?」
「怖いですよ。森のクマさんと同じくらい」
 山歩きで一番出会いたくないもの、それがクマだ。それと同じように、街中で一番関わりたくないのがヤクザだった。
「いい根性だな。それは認めるが……姉さん、あんた薄井になにをした?」
「えっ?なにもしてませんよ。1度ご来店いただき、あの後ろにいる人、どっちだろ」
 若者が2人いるが、どちらもそっくりで見分けがつかなかった。
「どっちかの人と一緒に来られましたよね」
「なにか余計なこと、薄井に吹き込んだんじゃねぇのか」
 大山は正体をどんどんばらしていく。どうやらダミーとして事務所を借りるために利用していた薄井に、逃げられてしまったようだ。
 薄井はもらったメモを頼りに、新宿署の刑事に電話をして、保護を頼んだのに違いない。
 よかった、薄井は逃げられたのだ。このまま助けられるといいと、奈々美は心から願う。
「わたしと薄井代表との話は、あのどっちかの人が全部、聞いていたと思いますけど」
 あくまでもとぼける。それには根性というものが必要だ。中学のときはバスケット部、高校では山岳部、大学では山歩きサークル、ひたすら根性を鍛えてきた結果を、奈々美はここで試したい。

「本当になにも言ってないのか?」
「はい」
 大山は顔を近づけてきて、奈々美の目を覗き込んでくる。奈々美は堂々とそれを受けてにらみ返した。
 ヤンキー少年たちは、息がかかるほど顔を寄せてにらみ合いをする。あれは自分の気迫、一歩も引かないという気持ちを見せつけるためのものだ。大山はどうやらその昔ヤンキー少年だったときの手法を、まだ使っているらしい。
「残念です。大山さん、好みのタイプだったから、最初の審査が甘くなって失敗してしまいました」
「んっ?」
 奈々美のいきなりの言葉に、大山の体が少し後ろに引かれる。
「借りられると期待させてしまったのは、わたしのミスです。それは素直に謝ります。あなたが本当に薄井清さんだったらよかったのに。そうしたらわたし、今頃、毎日うきうきしながら、あの事務所の前を通っていたと思いますよ」
「……」
「事務所も借りられないというのは、お気の毒だと思いますが、わたしは街の静かな平和を守りたいです。住民がみんな、心穏やかに暮らせるような街、それが地元の不動産屋の願いですから」

 大山はなにも言わない。奈々美の雄弁に呆れたのだろうか。
 そのとき、ベンツの前に一台のクラウンが停まった。中から社長と堂島が、慌てた様子で出てくる。どういうわけか、2人は奈々美の窮地を知ったらしい。
「どうも、うちの社員がなにかしましたか?」
 社長はすぐに奈々美を庇うようにして、大山との間に割り込んできた。
「いや、いいんだ。姉さん、勉強になったよ。街の不動産屋だからって、軽く見てたのが失敗だったな。次からは、もう少し勉強してくるよ」
 次なんてなくていい。そういうことをしたければ、本場の歌舞伎町でばんばんやって欲しい。そうしていつか、ゴジラに踏みつぶされてくれと奈々美は願った。
「行くぞ」

 大山は背後の若者たちに命じると、悠然と若者によって開かれたドアから車に乗り込んだ。その姿は映画の中のヤクザのように決まっている。
 やっぱり好みのタイプだ。職業ヤクザじゃなかったら、きっと惚れてしまうだろう。
 ベンツが走り出すと、堂島が大きく息を吐き出す音が聞こえた。
「よかったぁ、間に合った。若葉ちゃんを連れ去られたら、どうしようと思ったよ」
「なんでわかったんですか?」
「カメラ、防犯カメラ。シャッターが開くと、俺のスマホに映像が届くんだ」
「堂島さん、ますますすごいです」
「いや、これは佐倉君の提案だから」
 もっとも地味な社員、佐倉はカメラやビデオのオタクで、かなり詳しいというのは聞いたことがある。
「社長と俺にだけ映像が配信されるようになってんだよ。若葉ちゃんだったから、安心して切ろうと思ったけど、大山の姿が映ってて、慌てて社長と飛んできた」
 社長は仁王立ちして、ベンツの去った方向を見つめている。
「社長、わざわざ助けに来てくれて、ありがとうございます」
「んっ……俺は、絶対に国産車だ」
「えっ?」

「若造が、なに、あの偉そうなベンツ。違法なことして稼いでるくせに」
 社長の怒りは、どうやら別の方向に向いているらしい。
「今回は、まったく役に立たなかったな」
 悔しそうに社長は呟く。そういえばほとんど終わった頃に、社長の登場となっていた。
「車の性能のせいで、遅れたわけじゃないからな」
「わかってます。どんなに急いでいたって、交通ルールは守らないといけませんから」
「そうだよ。そのとおりだ」
 不思議だ。あんなに怖いと思っていたのに、今は大山もそんなに怖いと思わない。冷静に話せばわかってくれる相手なら、必要以上に怖がることはないのだ。
「怖い思いばかり、若葉にさせちまったな。乗れよ、家まで送っていくから」
「ありがとうございます。でも、いい経験になりました。怖いと思ったけど、話の通じる相手でよかったです。森のクマさんは、言葉が通じませんから」
「クマ?」
 クマみたいな男が好みだが、その趣味は少し訂正したほうがいいかもしれない。世の中には、クマやゴリラ以外にも、犬や猿、カワウソタイプの男もいるのだから。


 明石の店の名前は『ラブリー・ライ』可愛い嘘という意味らしい。
「可愛い嘘だからカワウソ。無理があるって」
 改装工事の現場を見ながら、奈々美は近くに積まれた資材の上に腰掛けた。手には差出人の名前がない手紙がある。『不動産ステーション内、若葉奈々美様』宛てで届いた手紙だ。
 手紙を読もうか、それとも作業中だろうが、隣の依田夫妻の仕事場を訪れるか考える。奈々美は明石がイメージキャラクターの話をしていたから、依田家の奥さんを紹介したのだ。明石は『マルニャン』を知っていて、飛び上がって喜んでいた。
 まん丸の可愛いカワウソのイラストが、看板にも描かれている。このキャラクターも、ネットの波に乗ってやがて日本中、いや世界中に広がっていくのだろう。
 手紙を広げてみることにした。今は手紙をもらうことなんてあまりない。ほとんどメール、ライン、SNSで連絡がついてしまう。手紙で届くのは、いつだって仕事関係の書類ばかりだ。
「あっ……薄井さんだ」

 便せんの最初には、角張った文字で薄井清一と名前があった。
『若葉さんのおかげで、今は他県のある施設で、下働きをしております』
 その文面を見て、奈々美はほっと嬉しいため息を吐く。
「逃げられたんだ」
 会社の倒産、自身の病気、妻の死、そんな不幸の連続と、ヤミ金でお金を借りたばかりに、大山のダミーをやらされるようになった経緯が書かれていた。
『今は自然の中で、座ったままでできる農作業や、鶏の世話をしております。残りの命はそうたくさんはないでしょうが、平和のうちに死ねることを感謝いたします』
 こういう文面に奈々美は弱い。ついうるっときてしまう。
 そういえば大山はあれからどうなったのだろう。警察に逮捕されたのだろうか。それとも警察は、大山がもっと大きな犯罪を犯すまで、遠くから様子見をするのかもしれない。
「この街には、2度と来て欲しくないな」
 外見は大山タイプで、中身は純真素朴な男性というものは、この都会にはもう生息していないのだろうか。
「あーっ、若葉ちゃんだぁ。ねぇ、見て、キャラT、可愛いでしょ」
 キンキン声に顔を上げると、明石がカワウソキャラの描かれたTシャツを着て微笑んでいた。
「か、可愛いですね」

「でしょ、でしょ。これね、お店でグッズとして売るの。依田ネコ先生のイラストだから、んっ、もう、ラブリー」
 クマとカワウソ、やはり違いは大きい。大きすぎる。殴られ、爪で引っかかれる怖さがあっても、やはり奈々美はクマのほうが好きだ。
「オープンのときは、人手が足りないから、若葉ちゃんもこのTシャツ着て手伝って」
「はい?」
「簡単だよ。うちのメインは、カワウソドッグ、ホットドッグね。それとイラスト入りのバンケーキでしょ」
「あっ、調理なら、やれますけど」
 ホットドッグやパンケーキなら、いくらでも作れる。なるほどお食事券の効果は、こういう形で使われるものらしい。
「料理もできるんだ。すごいね」
「い、いや、それって普通でしょ」

 可哀想にカワウソボーイの周辺には、料理をする女性というものは存在しないらしい。
 人を見抜く目。そういうものがあるのだとしたら、奈々美はぜひ手に入れたい。そうすれば今回のような失敗はしなくてすむ。
 けれど見抜く目があっても、明石のような想定外の人間は、どうやっても理解できそうにない。
 堂島は奈々美より30年長く、この世界で人を見てきている。やはりその年月が、観察眼を育てるのだろう。
「知り合いにテレビのディレクターがいるの。ママの店に何度か取材に来てたから。ここもうんとテレビで流してもらうんだ」
 カワウソボーイは、思ったより商才はあるのかもしれない。
 この街の新たな魅力、カワウソカフェが誕生しました。あなたの住まいのすぐ側に、カワウソが泳ぐ素敵なカフェが。
 賃貸広告の文言が、すぐに浮かんできた。このカワウソカフェを、うまく利用するのも賃貸を活性化させる手かもしれないなと、奈々美は考えていた。
 

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