第5話 事故物件 (宅地建物取引士奈々美の奮闘記)

しぶりに山歩きができて、休日明けの出社の足取りも軽い。登ったのは近場の高尾山だったが、若葉奈々美はそれで十分満足していた。
「この前は富士山登ったし、次はどこにしようかな。あっ、筑波山なんてどうだろう。無事にカエルツアー」
 ガマガエルのキャラが思い浮かぶ。観光みやげとして売られている『ガマの油』だが、本当にガマの油が入っているわけではないらしい。
「平日休みなのはいいよね」
 不動産関係の仕事をしていれば、土日に休むのは難しい。土日には新築物件や賃貸物件を案内するのに忙しいのだ。けれど平日休みのほうが、奈々美にとってはありがたい。近場の山は観光地化が進んでいて、土日に行くととんでもない山登りラッシュに出会うことになるからだ。
 勤めている会社『不動産ステーション』に着くと、今日は珍しく一番乗りではなかった。
「おはようございまーす」
 元気に挨拶して入ると、ドアのところでごそごそとなにかしている佐倉に出会った。
「あれ、佐倉さん、今朝は早いんですね」
 いつも定時に出社してこない佐倉だ。こんな時間にいることは奇跡に近い。
「いや、ドア、昨日から調子悪いから、直しておけって」
 奈々美のほうを見ないで、佐倉はぼそっと呟いた。
「そうなんですか。ご苦労様です」
 そういえばこの間、帰ろうとしていた太めの女性客が、自動ドアに挟まれていた。見送っていた麻生が、笑いを堪えるのに必死になっていたのを思い出す。
 佐倉は30代の社員で、奈々美より2年先輩だ。けれど営業成績では、常に最下位という不名誉な地位にいる。それでも首にならないのは、社長の知り合いの息子だからということらしい。
 営業はほとんどしないが、まるで便利屋のように修理作業には出向く。業者を頼むほどではない電灯の不具合や、インターフォンの交換などを黙々とこなしているので、他の社員も佐倉のことはそれなりに認めていた。
「昨日、秋葉原からツクバエキスプレスに乗って、筑波山登ってきたんですよ。帰り、秋葉原で降りてなにか食べてこようかなとも思ったけど、先に佐倉さんにおすすめの店、教えてもらえばよかったな」
 麻生が、佐倉は休みとなると秋葉原にいると言っていたことを思い出し、つい口にしてしまった。すると佐倉は、小さな声で答えてくれた。
「秋葉原なら、カレーかラーメン食べれば、はずれないよ」
「そうなんですか?うわぁ、カレー食べてくればよかったぁ」
 自炊している奈々美だが、カレーはあまり作らない。なぜなら作っているうちに、いつの間にか鍋いっぱいになってしまって、その結果何日もカレーを食べ続けなければいけなくなるからだ。
「カレーか……食べたくなってきちっゃた。作りすぎたら、冷凍しようかな」
 自分のデスクに落ち着き、持参したミルクティを飲みながら、パソコンをオンにして今日の予定を考える。
 奈々美はここ『不動産ステーション』では、唯一の女性営業社員だ。宅建の資格も取り、積極的に営業に回っているが、今、熱心に取り組んでいるのが、女性にとって住みやすいという物件の開発だった。
 この街には昔の住宅地がそのまま残っていて、戸建て住宅がずっと続く一画がある。そのためか治安はよく、女性の1人住まいには最適だと奈々美には思えるのだ。
 都心までの電車の便もいい。駅前の商業施設の生鮮食品は少しお値段が高めだが、料理好きのマダムの御用達なので洒落たものを売っている。意識の高い女子には、そういった店は気に入られるだろう。
「あっ、かわうそカフェが、ニュースに取り上げられてる」
 奈々美が契約をまとめたカフェの記事が、ネットニュースで取り上げられている。こういったニュースに飛びつく女性もいることを、奈々美はよく知っていた。
「ようし、あのかわうそカフェがある街で、暮らしてみませんか、それで攻めていこう」
 早速、物件の情報を書き換えようと思ったが、そこで奈々美の手が止まった。
「……ない……」
 積極的に女性に貸し出したいような物件がない。
 賃貸物件が大きく動くのは、2月から4月、大学への進学や新卒の就職、転勤などが行われるシーズンだ。家族で新居への引っ越しとなると、4月に続いて夏休みシーズンが多い。その次に少し移動があるのは9月で、大学の新学期や10月の転勤が理由だった。
 日本民族大移動のシーズンが終わると、賃貸の動きも鈍くなる。逆にこういったときに引っ越しができるなら、借り手にとっては得な季節なのだが、残念なことに優良物件はすでに埋まっている。
「どっか空き部屋、でてないかな」
 奈々美なりの売り方があるので、女性向けに貸し出すなら、大家との交渉が必要だ。
「ペット可。壁紙を取り替えてもいい……とか」
 壁紙を自由に選べるサービスは、すでに大手の賃貸メーカーがやっている。奈々美もぜひそのアイデアを取り入れたいのだ。
「空き部屋情報は……」
 そこで奈々美の手は止まる。コピーされた資料の中にあった空室情報に、見覚えがあったからだった。
「あれ?ここ、半年前にあたしが貸したとこだよね?」
 3階建てマンションの2階角部屋、1LDKの物件だ。借りたのは女子大生で、卒業後は都内の企業に就職が決まっているから、そのまま住み続けるということだった。
「……カレシでもできたのかな」
 なにか違和感がある。そういえばこの部屋、その前も3か月で住人がでていってしまい、なにがあったんだと社内でも噂になっていた。
 気になる。どうもおかしい。南西の角部屋、ベランダもあり、前は空き地でトラブルになるような住人は住んでいない。いい部屋だと思ったが、どうして居着かないのだろう。
 今日の予定は決まった。ここの大家を訪れ、事情を聞くしかない。もし悪い条件があるなら、逆にそれをうまく利用して、部屋を貸し出す方法を見つけるのだ。


 問題のマンションは3階建てで、1階に6室、2階と3階は8室の部屋がある。大家の吉田さんは、1階の自室に住んでいた。
「どうも、いつもお世話になっております。『不動産ステーション』の若葉です」
 定番のお土産、焼き菓子セットを差し出しながら、奈々美は深々と頭を下げる。
「いらっしゃい。悪いわね、この間、来てもらったばかりなのに」
 大家の吉田さんは50代、18年前にこのマンションを建ててから、ずっと1階の自室で暮らしている。家族はいないようだ。
「いい人が決まったと思ったのにね」
 疲れた顔でいうと、吉田さんは奈々美をリビングに案内する。賃貸用の部屋二部屋分を1つにした3LDKの部屋で吉田さんは暮らしていた。
 マンションを建てるのに、どれだけ資金がかかったのか知らないが、もしローンが残っていないなら、家賃収入だけで十分すぎる収入だ。けれど吉田さんの生活に派手さはない。家具も家電製品も、古いものをそのまま使っていた。
「あの……こちらにお住まいの人のなかに、問題のある人とかいるのではありませんか?もしトラブルがあるなら、相談にのりますけれど」
 娘のような奈々美に言われて、不愉快に思わないだろうか。気にはなったが、吉田さんの疲れた様子を見ると、つい心配になって声をかけたくなってしまった。
「そうねぇ……お住まいの人ならいいんだけどね」
 奈々美にコーヒーを勧めながら、吉田さんは失礼と断ってタバコに火を点けた。
「なにか思い当たることがおありですか?」
 コーヒーを口して、奈々美は思わず呟く。
「あっ……おいしい」
 思ったことが、すぐに口から飛び出してしまうのが奈々美の欠点だが、今回はこの言葉が吉田さんを喜ばせた。
「そうでしょ。おいしいのよ、あたしのコーヒーは。パパちゃんもね、コーヒーだけは由美のでなきゃいやだって、いつも言ってくれたものよ」
「わかります。わたし、コーヒーあまり好きじゃないんですけど、これなら大好きになれそうです」
「男はね……みそ汁かコーヒーで落とすの。わかる?」
 そこで吉田は艶めいた顔になって微笑んだ。
 こんな笑顔というものは、熟練の女優がテレビで演じたものしか見たことがない。奈々美はどういったリアクションで答えたらいいのかわからず、ただ目をぱちくりしていた。
「このマンションはね、パパちゃんと別れるときにもらった手切れ金で買ったの」
「ご主人と別れられたのですか?」
「ご主人じゃないわ。そういえばわかるでしょ」
「は、はい」
 正式な結婚ではなかったといことか。では愛人というやつだ。奈々美の短い人生で、堂々と愛人だったと名乗られたのはこれが初めてだった。
 こんなマンションが買えるほどの手切れ金を払ったとなったら、吉田さんのパパちゃんはかなりの資産家だったのだろう。
「あたし、当時は赤坂のクラブでね。結構、売れてたのよ」
 赤坂のクラブ……飲んで、踊ってのあのクラブではない。ましてやスポーツクラブでもない。華やかなホステスが、セレブ男性をもてなす社交場のことだろう。
「奥様にあたしのことがばれてね。修羅場になって……ま、いろいろあったのよ」
「は、はぁ」
「別れて5年後にパパちゃんが亡くなったとき、あたし、お葬式にも行けなかったの」
 どんどん話はサスペンス劇場のようになってくる。奈々美の乏しい想像力では、この話がどう進んでいくのか、まったく先が読めなかった。
「それでね。その奥様が、去年、亡くなったんだけど、それからよ。変なことが始まったのは」
「はあ?」
「どうやら、でるらしいの」
 話はそこに落ちていくのか。つまり吉田さんを恨んでいたパパちゃんの妻が亡くなった後、なにかの怪異現象が起こって、借り手が逃げ出すということらしい。
「でも、おかしいですよ。どうしてこちらの部屋にでないで、2階の角部屋なんです?恨みがあるなら、直接こっちにくるべきじゃないですか」
 いや、それを当人に言ってはまずいだろう。けれど奈々美は怒りスイッチが入ると、ますます思ったことを口にせずにはいられなくなるのだ。
「そういう女なのよ。きっと部屋をみんな順番に回って、誰も住まなくなるようにするつもりなんじゃないの」
 奈々美の勢いにつられたのか、吉田さんも困ったような笑顔で思ったことを言ってくる。
「なんですか、それ? そんなの許せません。いや、そんなのないですよ。きっと他に原因があるはずです」
「じゃあどんな?」
「ま、前の空き地、昔住んでた人になにかあったとか?」
「それなら18年前からでてきたでしょ」
「いいえ、きっと石かなんかで封印されていて、それが誰か蹴ってしまったせいで、怨霊がフリーになって飛び出してきて……」
 ふと我に返ると、言っていたことが心底恥ずかしくなってきた。
「すいません……大きく、ずれてましたね」
「いいわよ。おもしろいから、もっと続けて」
「いえ、今日は、そんな話をするつもりで来たんじゃないんです」
 怨霊なんて奈々美は信じない。そんなもののせいで、南西角部屋、駅から徒歩10分以内の好物件を不良物件にはしたくない。
「建物は築18年と古くなってきたのですから、フリーレント制を取り入れたら、空室が埋まりやすくなると説明しにきたんです。なのに、すいません、取り乱して」
「なあに、そのフリーレントって?」
「礼金をなくして、家賃を1か月から2か月、サービスするんです。そのかわり、2年契約を守ってもらいます。契約終了前に出るとしたら、フリーレント期間の家賃も払わないといけない契約なので、大きく損にはなりません」
 古くなってきたアパートには、この方式を奈々美はすすめている。入居時の初期費用が安くなるから、引っ越し資金の足りない若者などには、とても好評なのだ。
 けれど大家サイドからみたら、礼金は取れないし家賃を2か月分損することになる。
「こちらの物件なら、フリーレントにしなくても、借り手はすぐに見つかると思いますが、あの部屋が何度か空室になっていたものですから」
 まさかそんなおかしなもののせいで、空室になっていたなど知らなかった。奈々美は単純に西日が強すぎるのかなと思っていたのだ。そういった不利な条件がある場合、フリーレントにすると借り手は喜ぶ。多少の不便はあっても、家賃も敷金もとなると、うまくすれば3か月分の家賃が浮くことになるのだ。
「礼金が入らなくなるので、吉田さんとしてはおいやでしょうが」
「あら、そんなのはいいのよ。建物が古くなってるのは本当だしね。ただ直さないといけないとこが、これからどんどん出てくるでしょう?」
「そうですね」
「修理代も積み立てないといけないし、大家って結構大変なのよ」
「はい、わかります。できるだけ、お手伝いしますから」
 これまでこのマンションは、安心して貸せる物件だった。『不動産ステーション』が担当するようになってから、何人もの借り手を紹介している。だからこそ、また新しい借り手をぜひ見つけてあげたいのだ。
「それじゃ……お願いできるかしら」
「はい?」
 吉田さんはじっと奈々美を見つめて、しばらく黙ってしまった。なにを頼みたいのか、じりじりして待っていたら、やっと口を開いた吉田さんが言ってきたのは、意外な言葉だった。
「本当にそんなものがでるのか、あなた、しばらくあの部屋に住んでみてくれない」
「えっ……」
 霊感なんてものとは無縁で生きてきた。ホラー映画は嫌いでほとんど観ない。そんな奈々美が住んでも、それはでるのだろうか。
「わ、わたしですか?」
「もしあなたがなんともなかったら、このマンション全室、これからそのフリーレント制にしてもいいわよ」
「えっ、ええええっ」
 それは大きい。引っ越しシーズンになったら、大学生や新社会人が、先を争ってここのマンションを申し込むようになるだろう。
「では……試しに、何日か、住まわせていただきます」
 言ってしまった。すっかり乗せられてしまった。結果、奈々美は恐ろしい目に遭うのだろうか。


「というようなわけで、しばらくあちらに住むことになりました」
 社長の泉田啓一には、なにもかも正直に報告することにしている。嘘など吐いてもどうせばれる。奈々美は嘘が下手なのだ。
「あちらに住むって、若葉、でるんだぞ。いいのか?」
 社長はにやにや笑っている。どうやら本気にしていないらしい。
「もし、わたしが耐えられたら、あのマンション、全室フリーレントにしてくれるそうです。3月に何室か空く予定ですから、宣伝になっていいかなって……」
 フリーレントでは礼金や敷金をサービスすることはあるが、不動産屋の仲介手数料はとれる。まだまだ営業成績のよくない奈々美としては、少しでも多く仲介手数料で稼ぎたいのだ。
「しかしなぁ、怖くないのか?」
「まだ1度も、おばけと宇宙人には会ったことがありませんので、怖いか怖くないかわかりません」
「うーん、それにしてもおかしいな。あそこは事故物件しゃないはずだ」
 そういえば奈々美は、これまで事故物件を担当したことがない。麻生がこの間、担当していた物件が事故物件になったので、いろいろと苦労していることを聞かされてはいるが、それと今回のことは問題が違う。
「事故物件じゃないみたいです。つまり大家さんに憑いてる怨霊が、あの部屋で悪さをしているってことらしいんで」
「おいおいおい、そんな話、マジで信じたのか?」
「それ以外、原因が考えられないじゃないですか。それとも前の空き地が、呪われた土地なんですか?」
「いや、そうじゃなくて、どうした若葉、いつものおまえらしくないぞ」
「……そうですか?」
 いつもの自分とは、どんな自分なのだろう。熱血不動産屋という、ありがたい称号をもらったことがあるが、そんな自分だから問題の部屋への泊まり込みもやるつもりなのだ。
「若葉はいつも冷静に分析してるだろ。今回のことも、もう1度、最初から疑って考えてみろよ。あのマンションが事故物件だなんて噂になったら、吉田さん、借り手が減って困るんじゃないか?」
「冷静に……そうですよね。やってみます」
 怨霊でない場合、なにがあの部屋の住民を追い出したのだろう。できれば転居した住人に会って話を聞きたいが、そこまで奈々美がする必要があるのかは疑問だった。


事故物件とは

賃貸のアパート、マンション、一軒家、販売されている中古の一軒家、マンションなどの不動産物件において、死亡事案が発生していたもののことを事故物件といいます。

事故物件として扱われるものとしては、殺人、傷害致死、火災(放火かまたは失火)などの刑事事件となったものが主です。

事件性のない事故でも、自殺、災害(地震、洪水など)や孤独死などで居住者が死亡し長い間放置された後発見された物件は事故物件となります。

事故物件であることを借り手に隠すことは、宅地建物取引業法47条が定めるところの「故意に事実を告げず、又は不実のことを告げる行為」に該当し、禁止されています。不動産屋は借り手に対して、事故物件であることを告知する義務があります。

けれど2年以上経過した場合「本件自殺から、2年程度経過すると瑕疵とは評価できず、他者に賃貸するにあたり告知義務を負わない」との、東京地方裁判所の判決例があります。

また、何人目の入居者まで告知すべきかについてですが、「自殺住戸への最初の入居者には説明義務があるものの、その次の入居者には、特段の事情がない限り告知する義務がない」と、判断されました。しかしながら、後から気がつくとトラブルになる為、可能な限り告知するのが通常です。


 隣席の麻生が戻ってきたので、奈々美はパソコンに向けていた顔を上げて、聞きたかったことを口にした。
「麻生さん、この間の事故物件、次の借り手見つかったんですか?」
「あっ?なんで今さら、そんなこと聞いてくんだよ」
 老人の孤独死だったが、その部屋の担当をしていた麻生は、大家と共に警察が部屋のドアを開ける場面に立ち会ったのだ。その瞬間を思い出したのか、眉間にしわを寄せて不愉快そうにしている。
「事故物件って、死人がでたりするとなるんですよね?」
「だから、なんだよ、はっきり言えよ」
「怨霊とかって、事故物件にならないですよね?」
「はあっ?」
 奈々美はそこでほうっと大きなため息を吐いた。
「調べてもそういう事例なくて、オカルトサイトにどんどん飛ばされていっちゃうんですよね。なんか、おばけでもうおなかいっぱいってかんじです」
 麻生に相談しても、どうにもならないというのはわかっているが、奈々美はとりあえずここまでの経過を話してみた。
「今夜からその部屋に泊まるんですけど、やっぱり十字架とか、数珠とか用意したほうがいいですか?」
 そこでぷっと麻生は勢いよく吹き出した。
「あーあ、がまんしないとだめかぁ。社長には冷静になれって叱られるし、麻生さんには笑われるし」
「若葉ならだいじょうぶだろ。なにしろ、富士山を息切れもしないで登っちまうぐらいタフなんだからさ」
 いつも麻生の軟弱ぶりを笑っていたが、どうやらここで逆襲されたらしい。
「録音と録画、したほうがいいのかな。思うんですけど、おばけがキリスト教徒じゃなかったら、十字架持ってても意味ないですよね?」
「あのさ、そんなので悩むより、隣の部屋と上下階の人間、調べたのか?」
「へっ?」
「おばけより怖いのは、生身の人間だぞ。その部屋の住人って、可愛い女子大生だったんだろ。わざと脅かしてたのかもな」
「あっ、あーっ、そういう考え方もあるんだ」
 体力的にはかなり劣っていて、顔も少し劣っている麻生だが、こういうときには見直してしまう。
「さすが、アメリカの科学捜査ものドラマが、好きなだけのことはありますね」
 奈々美は大家の吉田さんの怨霊話をすっかり信じてしまい、いつもの冷静さを見失っていたようだ。
「ちょっと可愛いかっこしてさ、洗剤かなんか持って、挨拶に行ってみ。おまえ、笑ってれば、少しは可愛くみえるから、だませるぞ」
「だますって……」
「中身はバリバリの山歩き女だって気付かれるな。脅かしたいほど可愛い女の子を演じるんだよ」
 麻生は逆襲に満足したのか、楽しそうにへらへらと笑っている。
 目から鱗がボロボロ落ちていく。怨霊ではなく、生身の人間の仕業だとしたら怖くない。むしろいっものように、戦うファイトがわいてきた。
「いたずらだったら、許せませんよ。わたし、がんばりますっ」
 今日は早めに家に戻って、簡単な引っ越し準備をしなければいけない。さすがに荷物が多いから、会社の車が必要になりそうだった。


 寝るのは寝袋でいい。洗濯はまとめてコインランドリー。ガスに水道、電気も使えるようにしてくれてあるから、とりあえず簡単な自炊道具も運び込むことにした。キャンプ用のもので、高校時代から使っているものだ。
「なんか、いつも自社物件で、キャンプ生活してるような気がするな」
 自然の中で眠るからこそ、キャンプは楽しいのだ。キャンプ用具を使っていても、家具もない賃貸物件の床で寝るのでは、楽しさがぜんぜん違う。
 キッチン用の洗剤を手に、隣室、上の階、下の階と挨拶にいった。麻生のいうことを素直に聞いて、ピンクのパーカーを着て可愛い女の子風のしゃべり方もしてみた。
 隣人は30代の女性、仕事がテレビやCMの制作現場ということで、ほとんど家には帰らないらしい。
 上の階はチャラい感じの20代フリーターで、夜働いているという。どうもあの雰囲気ではホストのようだ。部屋の中から、異様なコロンの匂いがした。
 この2人にそれとなくおかしなことはないかと聞いてみたが無駄だった。女性は家にほとんどいないし、チャラ男は夜仕事をしている。
 階下に挨拶にいくと、40代の物静かな男がでてきた。おかしなことをしているとしたら、この男しかいない。そうは思っても、奈々美の目にはただの静かなおっさんにしか見えなかった。
 だが用心して、このおっさんには変なことありませんかと聞くのはやめた。なにか仕掛けているのがこの男なら、警戒しているのがばれたらなにもしないだろう。
 部屋に戻り、ご飯を飯盒で炊いた。そしてレトルトのカレーを温める。山でなら最高においしい食事なのだが、部屋で食べると感動は半分以下だ。
「やっぱり……次はカレーちゃんと作ろう。なんか虚しい……」
 宅建といわれている宅地建物取引士の免許を取った。颯爽と営業に回り、笑顔で新築マンションなどをバンバン売りまくっている自分をイメージしていたが、現実はどうだろう。
「熱血って、言われてるけどね」
 問題物件に寝袋持参で泊まり込み。タブレットに見逃したテレビドラマを映し出しながら、レトルトカレーを食べている。
「でも、いい職場だもの。いじめられることもないし……助けてもらってる」
 それが一番の救いだ。失敗しても社長や同僚は、必ず奈々美を助けてくれる。決して見捨てることはない。
「あっ……こういう企画、どうだろう。お試し宿泊キャンペーン。入ろうか悩む部屋に、1泊してみるのあり。無料で1泊、ご招待」
 またバカな企画をと社長に怒られそうだ。けれど社長だって、防犯用カラーボールキャンペーンなんてくだらないものをやっている。
 ドラマを見終えて、お風呂に入った。そして寝袋に潜り込み、しばらく企画書をタブレットに書き込んでいた。
 この部屋がなにか出てくる恐ろしい部屋であることなど、すっかり忘れている。企画書を作るのがおもしろくて、それどころではなかったのだ。
 そろそろ寝ないといけない時間になった。奈々美はシンデレラにはなれそうにない。なにしろ12時前には寝てしまうからだ。
「早く寝なくちゃ。明日が楽しみ」
 企画書を見た社長の反応が楽しみだった。1泊させるのにいくら費用がかかるんだと、まずそこから文句を言ってくるはずだ。
 経理の間中を味方につける必要がありそうだ。きっとどこかからそのための予算を引っ張り出してくれるだろう。
 うとうとしかけたときだった。ザーッと水が流れるような音がした。
「……雨?」
 天気予報では、今夜は快晴となっていた。どこかの部屋で、バスタブの湯を抜いている音だろうか。こういう生活音がクレームとなることもある。
 けれどバスタブの湯なら、ある程度流れたらとまるだろう。その音は忘れた頃に、また聞こえてくる。
「ビデオ……」
 退社する前に、佐倉が会社所有の高性能ビデオカメラを渡してくれた。スマホでは撮れない怨霊も、これなら撮れるということらしい。
 奈々美はスイッチを入れて、カメラの先を窓に向けた。カーテンもない窓からは、快晴でも星の瞬きがほとんど見えない夜空が広がっている。
「んっ?」
 ザーッ、ザザザーッと波のような音がまた聞こえてきた。眠る前の静かな時間に、毎晩こんな音が響いてくるとしたら、気になって安眠できないだろう。原因がはっきりしていればクレームにもなるが、奈々美にもこの音の正体がわからない。
 この音はタブレットでドラマを観ていたときから、流れていただろうか。その後、企画書を書いていたときには聞こえていない。電気を消し、寝袋に潜り込んでしばらくしたら聞こえ始めたのだ。
「おかしい……暗くなったら流れるの?」
 大音量で聞こえているのではない。微かに聞こえる、雨音程度だから余計に気になるのだ。
「これじゃ寝られない……」
 電気を点けたらどうだろう。音楽をガンガン流すのもよさそうだ。電気を点けたまま寝ようと思って起き上がろうとした瞬間、奈々美は窓の外に異様なものがいるのに気がついた。
「……えっ、えええ、こ、これって、ナ、ナミアダビアスだっけ。いや、違った、ナムダラチゲスじゃなくって、ナミアミオブツ、ち、ちがうーっ」
 窓の外に、白っぽい姿がゆらゆら揺れて見える。どうやら髪の長い女らしい。3階のベランダからぶら下がっているとはとても思えない。そんな実体のあるものには見えなかった。
「怨霊退散、そう、これでいこう。怨霊退散、おんりょーうっ、たいさんっ」
 奈々美のおかしな言葉攻撃が効いたのか、白い姿はふっとかき消えた。そこで奈々美は勇気を振り絞り、ビデオを片手にベランダに飛び出した。
「山の雷のほうが、ヤクザさんより怖い。山のクマさんは、おばけよりずっと、ずっと怖いんだから、負けるな、自分」
 ベランダに出て、上階と下の階をビデオで撮る。けれどどちらにも、なにも変わった様子はなかった。
「んっ?」
 けれど奈々美の鼻は、夜気に残る微かな異臭に気がついていた。おばけがでるときは、腐った魚のような臭いがするらしいが、それとは違う。
「なんだろう、この臭い……」
 馴染みのある臭いなのに、すぐには思い出せない。その臭いも、流れてきた微かな夜風のせいで、すぐにかき消えてしまった。


「ナミアミオブツって、これ聞いたら、お坊さん怒るよ」
 ビデオを見た麻生が、バカにしたように笑っている。けれど社長は笑わなかった。
「この後、ビデオ持ってベランダに飛び出したんだ。やっはり若葉だな」
 社長にほめられたいのはそこではない。企画書のはずだったのに、今朝はみんなこの怨霊ビデオで盛り上がってしまってそれどころではなくなっていた。
「それじゃ今夜から、麻生も若葉に付き合え」
「えっ?なんで、また俺なんすかっ。え、ええーっ、担当は若葉でしょ。社長、いくらなんでも若葉に甘すぎますよっ。こんなの1人でやらせりゃいいんです!」
「安心しろ。佐倉も同行させる」
 いや、そんな大事にはしたくない。麻生はともかく、佐倉にまで迷惑をかけたくなかった。
「社長、だいじょうぶです。今夜はお清めの塩とお酒、それにお守り用意しますから」
「そういう問題じゃない。な、佐倉、どう思う?」
 いきなり指名された佐倉は、皆の後方にひっそりといたのに注目を浴びてしまった。
「俺は、これは人間がやってると思うね。佐倉、そこを調べてこい」
「でたっ、それっていつもの社長の勘ですか」
 奈々美は思わず言ってしまったが、確かに社長の勘はよく当たる。
「そうだ。俺の勘が、こいつは臭いと読んでいる。佐倉、昼間から部屋に入って、徹底的に中を調べろ」
 佐倉は静かにうなずいているが、奈々美は気が気ではない。
「調べるって、なにを調べるんです?」
「盗聴器だよ。それとどこかにあの音の音源があるかもな」
「あっ……そうか」
 盗聴器のことを、入社してすぐに教えてくれたのは佐倉だった。女性が借り手だった場合、盗聴器を仕掛けられるというトラブルはある。いつでも調べるからと佐倉に言われていたのに、奈々美は例の物件を紹介するとき、そのチェックをしなかったのだ。
「わたしのミスです。前の人が退室するときに、ちゃんとチェックしなかったから」
「女性向け賃貸に力を入れたいんなら、そこも重点的にやったらどうだ。うちには佐倉っていう、優秀なスタッフがいるんだから」
 社長は社員をほめるのがうまい。営業成績が毎回最下位の佐倉にも、ほめられるところがあればこうして堂々と口にする。
「そうですね。佐倉さん、よろしくお願いします」
 奈々美は佐倉に向かって、素直に頭を下げた。


 佐倉は丁寧に問題の部屋を点検している。そしてついにコンセントから盗聴器を取り出した。
「若葉さん、ありましたよ」
「だけど、どうやってこの部屋に入ったんでしょう?疑うとしたら、清掃業者?引っ越し業者かな」
「ここは……番号式の電子キーだから」
 ぼそっと佐倉は呟く。そこで奈々美は、玄関のドアを確認しにいく。番号登録制の電子キーには、弄られたような跡はなかった。
「番号制ですよ。本人しかわからないはずだけど」
「いや、音、ですよ。操作中の音を聴けば、何番を押しているかわかります」
「はぁっ?」
 そこで佐倉は立ち上がり、かけている眼鏡を直していつもよりきりっとした表情を浮かべた。
「外にも盗聴器がありますね。鍵を開ける音を、毎回、聞いていたんです」
 奈々美は意味もなく電子キーの番号を押してみる。するとピポパッと特有の音が響いた。
 佐倉は外に出てくると、ガスや電気のメーターを点検する。そして小さな盗聴器らしきものを見つけていた。
「これでもう会話を聞かれることはありませんよ」
「すごい……佐倉さん、プロですね」
「……社長にすすめられて、盗聴器とか勉強しているんです。将来、この技術だけでやっていけるようにって」
 そこまで社長は考えていたのだろうか。奈々美は気になって、佐倉に聞いてしまった。
「社長とどういう関係なんですか?『不動産ステーション』に就職したのは、知り合いだったからだって聞いたけど」
「前の会社で上司のパワハラにあって、死にかけたんですよ。そうしたら父の知り合いだった社長が、うちで働けって拾ってくれました」
「パワハラ!」
「女の上司でね。僕、今でも女性恐怖症です。若葉さんは、不思議と話しやすいけど、ほとんどの女性とうまく話せないんで、営業には向いてません」
 若葉さんとは不思議と話せるということなら、それは奈々美が女性をまったく感じさせないからだろう。
「あははは、女の子認定されてないー」
「い、いや、そういう意味じゃなくて」
「いいんです。女の子と認められるより、同僚として認められるほうが嬉しいですもの。わたしって、いつも1人で勝手に暴走するタイプだから、今度からはどんどん皆さんの知恵を借りていこうと思います」
 電子キーならピッキング被害も少なくて安心などと思っていたが、音を聴いて番号を読み取る手段があるなど知らなかった。これは注意しなければいけない。
 佐倉は脚立にのって、今度はベランダや窓、さらにエアコンを調べ始めた。
「あーあ、あった」
「なんですか?」
「エアコンにスピーカーが隠してありますね。ここから変な音、流してたんですよ」
「あ、それはそのままにしといてください。今夜、麻生さんもくるから、肝試ししてもらいたいです」
 こんな種や仕掛けがあるなど知らないから、素直にギャーギャー怖がってしまった。あの恐怖感を、ぜひ麻生にも体験してもらいたい。
「鍵開けて、勝手に部屋に入って細工したんですよね?」
「そうですね」
 エアコンを直しながら、佐倉はうなずく。
「……わかんないなぁ。そこまでやる意味って、いったいなんなんでしょう」
 これならまだ奥様の怨霊のほうがわかりやすい。どうしてよく知りもしない若い女性を、恐怖に陥れないといけないのだろうか。
「このマンションを事故物件にして、誰か得するのかしら」
「若い女性が、嫌いなんじゃないですか?」
「そっか。やっぱり下の住人かしら。大人しそうな男の人だったけど」
 奈々美の人を見る目はあてにならない。大人しそうな男性が、実は歪んだ欲望の持ち主かもしれないのだ。
「だけど、証拠がないですよね。白い女の人の姿も、なんだったのかよくわからなかったし」
 警察に捜査を依頼したところで、盗聴器を仕掛けられただけでは、真剣に犯人を捜してはもらえないだろう。あなたが怪しいから退去してくださいなどとも頼めない。そうなると永遠にこの部屋は怨霊のでる部屋になり、このマンションは訳あり事故物件のリストに載ってしまうのだろうか。
「夜になって、またやってくれるとありがたいんですけどね」
 佐倉はなんだかうきうきしている。もしかしたら佐倉は、盗聴器などの知識に詳しい自分と似たところのある犯人に対して、ライバル意識を持っているのかもしれない。だから謎解きを、ぜひやってみたいのだ。
「よしっ、今夜はちゃんとカレー作ろう。佐倉さん、カレー好きですか?」
「えっ、ええ、まぁ」
「秋葉原で食べ損ねたからかしら。頭の中がインド旅行状態です。おいしいの作りますから、カレーパーティでもしましょう」
 家に戻って、炊飯器と鍋を持ってくる。ついでに買い物をして、カレーの材料を用意してこようと思った。
「怖いと思うから怖い……おばけも一緒かしら」
 外された盗聴器を手にして、奈々美は呟く。怖いのはおばけよりも、生身の人間だという気がしてきて、ぶるっと体が震えてしまった。


「んっ、まい。お代わり」
 麻生がハイスピードでカレーを平らげている。奈々美はそんな麻生を冷たい目で見つめた。
「カレーは飲み物じゃありませんよ」
「若葉って、意外に料理うまいよな。おにぎりとカレーしか、食ったことないけど」
「ほめたってだめですよ。お代わりはあげるけど、1杯までにしてくださいね」
「じゃ大盛りで」
 のんびりカレーパーティのつもりだったが、話題はやはり仕事のことになる。麻生はそこで、奈々美にとっても勉強になることを教えてくれた。
「この間の事故物件さ。大家が他の不動産屋に乗せられて、告知なしで貸し出しそうになってさ。あせったよ」
 カレーをお代わりしただけでなく、スモークチキンのサラダも麻生はバリバリ食べている。上品に食べている佐倉と、実に対照的だ。おかげで奈々美は、佐倉のためにサラダをキープしてあげねばならなかった。
「告知なしだとどうなるんですか?」
「罰する法律ってないからね。やっちまうのは簡単さ。だけどもし後でそのことを借り手が知ったら、裁判起こされる可能性もあるんだよ」
「うちの会社もやったことあるんですか?」
「あるわけないだろ。うちの社長は正義の人だから」
 告知義務に従わないのは、悪徳不動産ということになる。なにも知らずに借りた人は、後から事故物件と知って、不快な思いをするに違いない。
「事故物件となると、家賃下げたり、礼金敷金なくしたりしないといけないだろ。それをケチってさ、裁判に負けたら、どっちが損ってことだよな」
「告知したんですか?」
「当然。それでも家賃安くすれば、借り手はすぐに見つかる。恨みを持って死んだんじゃないんだ。好きなテレビ観ながら、うとうとしているうちに亡くなった。発見が早ければ、病院で亡くなったかもしれない」
「病院で亡くなれば、事故物件じゃなくなるのかしら」
「ああ、告知しなくていいんだ。賃貸だけじゃない。戸建てやマンションでもそうだよ」
 奈々美は自分が担当しているお年寄りゾーン、単身の高齢者が多く住んでいる地域のことを考える。さりげなく声がけをしているが、孤独死を1人でもなくすために、もっと努力が必要かもしれない。
「社長が善人のせいかな。うちって、オカルト物件、少なくね?」
「そういわれれば……あまりないみたい」
借り手のクレームで、オカルトがらみというのはほとんどない。中古のマンションや戸建てでもそうだった。
「……社長の善なるオーラが、はねつけるんじゃないですか」
 佐倉は恥ずかしそうに言う。佐倉は、過労死だか自殺だかで死にかけたのを社長に救われたから、深く恩義を感じているのだ。
「だったらここも、社長がくればよかったのに。やだな、本物だったらどうすんだ」
「あっ、怨霊退散、効きましたよ。それ叫んだら、すぐに消えたから」
 咄嗟に仏教の念仏はでてこなかった。かといってキリスト教の悪魔払いの言葉も知らない。怨霊退散はマンガかアニメで仕入れた知識だった。それでも退散したということは、あの言葉には力があるらしい。
「金縛りにあったら、心の中で南無阿弥陀仏でもいいし、ナムミョウホウレンゲイキョウでもいいから、ひたすら繰り返すといいらしいです。言葉がうかばなかったら、バカ、マヌケ、アホでもいいって、僕の祖母が言ってました」
 佐倉に言われて、奈々美はああ南無阿弥陀仏というんだと、やっと思い出した。
「へぇーっ、そうなんだ。じゃ俺は、給料、上げろにしとくかな」
「うわぁ、余計に悪霊がつきそう」
 麻生は余裕のあるふりをしているが、実際におかしなものがでてきたら、絶対にびびると奈々美は内心にやにやしている。
「1つのことに集中して、おまえなんて怖くないんだと、示すといいそうですよ」
「そうなの。あっ、もしかして佐倉さんってさ、見える人?」
 訊ねている麻生は、絶対に見えないタイプだろう。もちろん奈々美も、霊的なものは見えない。
「まぁ、少しは……」
 その話、もっと聞きたいところだ。けれど今は合宿や修学旅行とは違い、真相究明お泊まり会だ。そろそろ電気を消して寝ないと怪しまれる。
 盗聴器が外されて、犯人は気になってしかたないはずだ。ただ古くなって壊れただけだと思ったら、また新たに盗聴器を仕掛けてくるかもしれない。それともばれたと思って、2度となにもしなくなってしまうかだ。
 今夜もあの音がしたら、犯人はばれたことに気がついていない証拠だ。音がしてくれたほうが、犯人を見つける手がかりになる。なにしろ今夜は1人ではない。麻生はあてにならないが、佐倉ならきっと真相を見つけてくれるだろう。


 寝袋で寝ることに、麻生は文句を言っている。佐倉は横にならない。毛布があったが、それを敷いた上に座って、ひたすらスマホを弄っていた。
 若葉は内心、あの音が聞こえてこないかとワクワクしている。麻生がびびるところが楽しみだった。
 けれど今夜は、なかなか音が始まらない。やはり盗聴器の音が消えたことで、不安になっているのだろうか。
「なにも起こらないじゃないか。マジで寝ちゃいそう」
 麻生に寝られては困る。奈々美がなにかくだらないジョークで苛立たせようとしたその時、あの音が聞こえてきた。
「んっ?」
「あれですよ。ビデオに入ってた音」
「水の音?トイレじゃないよな」
 ザーッ、ザザザーッという、波の音のようだが、あるいは雨の日に車が走っている道路の水音にも聞こえる。
 昨日はこれだけだったのに、今夜はその間にはっきりしない女性の囁き声のようなものが混じっていた。
「えっ、なに? なんて言ってるんだ?」
 なんと言っているのか、わからないのが余計に不気味だ。すすり泣いてたいるようにも聞こえる。
「佐倉さん、佐倉くん、おい、佐倉、これって本物?どっちなんだよ」
 やはり麻生はすぐにひびった。エアコンに仕掛けられたスピーカーから流れてるみたいですと、佐倉もすぐに言わないところが心憎い。
「おい、なんだ……あれ」
「えっ……」
 窓の外にゆらゆらと揺れる白いものが見えた。はっきり見えないが、昨日見たものと同じようだ。
「ひっ、ひぇーっ、怨霊退散、給料あげろ、ナミアミダブツ、怨霊、退散しろって、あれ、なにーっ!!」
 麻生は部屋の隅に後退し、窓を示してびびりまくっている。その姿を笑うつもりだったが、奈々美も笑えない。どう見ても本物のおばけに見えてしまう。
 これは本物なのだろうか。佐倉の意見を聞こうと思ったら、佐倉はいきなり立ち上がり、窓を開いてベランダに出た。そしてあろうことか、ベランダの柵を跳び越えて下に飛び降りてしまった。
「えっ、えっ、どうしたの、佐倉さんっ、わっ、どうしよう。麻生さん、どうしよう」
 今度は奈々美がパニックになってしまった。佐倉が怨霊に導かれ、飛び降り自殺でもはかったのかと思ったのだ。
「下、下にいこう。佐倉を助けなくちゃ」
 怨霊よりも生身の佐倉優先だ。2人は急いで部屋を飛び出し、階下に向かった。
 下の部屋は鍵がかかっている。ドアを叩いても開かない。
「鍵、大家んとこいって、鍵もらってこい」
「は、はい」
 暗証番号式のキーでも鍵がある。賃貸の場合、万が一のために大家か不動産屋が持っているものだ。
 夜でも構わず、奈々美は大家の吉田さんの部屋に駆けつけ、何度もインターフォンを押した。
「どうしたの!でたのかしら?」
 パジャマ姿の吉田さんは、化粧っけのない顔に、好奇心を滲ませていた。
「ち、違うんです。うちの社員が、下の部屋に飛び込んでいってしまって」
「ええっ?」
「鍵、ください。それと警察、通報お願いします」
「警察って、どういうこと?」
「不法侵入してますから」
 鍵を受け取ると、問題の部屋に向かって走った。麻生がドアの前で、足踏みしながら待っている。
「おう、きたか。下に差し込み口あるから」
 暗証番号式のキーは、隠れたような場所に鍵穴がある。やっと探り当てて鍵が開くと、中からドタバタと暴れている音がした。
「ええええっ、佐倉さんっ!」
 部屋の中では、眼鏡も吹っ飛び、額から血を流している佐倉が、必死になって下の階の住人、静かそうなおっさんに組み付いていた。
「手伝って、押さえて、逃がしちゃだめだ」
 奈々美は部屋に飛び込み、おっさんの足をしっかり捕まえる。
「つかまえましたーっ!」
「証拠品、麻生さん、プロジェクター、壊させたらだめだっ」
 プロジェクターの意味がわからないのか、麻生はただ部屋の中を右往左往している。奈々美は何度も蹴られそうになりながら、必死でおっさんの足にしがみついているから、手伝うこともできない。
「逃げようとしてもむだなんだからっ!警察、通報しましたよ。だから、もう、抵抗しないで!」
 こんな場面でもなければ、奈々美が男の足にすがりつくなんてことは、恐らく一生ないだろう。
「は、離せ。どっかで見たことあると思ったら、おまえら不動産屋だなっ」
 静かなおっさんは、すっかり荒ぶるおっさんになっていた。抵抗する力はかなり強い。佐倉と奈々美が必死になって逃がすまいとしているのに、麻生はやっと見つけたプロジェクターの前にかがみ込んでいた。
「あ、そういうこと。これね。映像なんだ。怖がって損した。また若葉に、バカなとこ見られちまったじゃないか」
「麻生さん、そっち、もういいから、こっち、押さえて」
「んっ……んん、しょうがねぇな」
 散らかったデスクの上から、麻生はガムテープを取り出す。そして勢いよくビッと伸ばすと、荒ぶるおっさんの手にまずぐるぐると巻き付けていった。
「社長がいなくてよかったね。社長だったら、こんなふざけたことしたら、すぐに殴ってたよ」
 奈々美だって殴りたい。けれどそういうことは、してはいけないのがルールだったような気がする。
「足、早く、足、しばってーっ」
 大人しそうなおっさんの抵抗は、まだ続いている。あきらめの悪いおっさんになっていた。


 警察署で1人ずつ事情を聞かれた。奈々美の担当は、見覚えのある警察官だった。
「またあんたか。放火犯捕まえてくれただけでなく、今度はなんなの?」
 警察署で出されるお茶は、どれだけ薄めたらこの味になるのかというくらいに薄い。出がらしなんてものより、白湯に近かった。
 おいしいミルクティが飲みたい、そう思いながら奈々美は、調書に名前を書く。
「住民を怖がらせるために、いたずらしていた犯人を捕まえたかったんです」
「うん……でも、なんで警察に相談しなかったの?」
「証拠がないと、警察には頼めないでしょ」
 証拠品がついに見つかった。なんとおっさんは、害虫退治のバルサンを使い、その煙にプロジェクターで幽霊の映像を投射していたのだ。
 奈々美が最初に嗅いだ馴染みのある臭いは、引っ越し前によく借り手が利用するバルサンの臭いだった。
 たとえ夜中でも、害虫駆除をしているといえば言い訳になる。けれどベランダで焚いて、害虫駆除もなにいだろうと奈々美は思った。
「大家さんに対する、業務妨害ですよね?」
 奈々美の問いかけに、警察官はうなずく。
「熱血不動産屋だけある、よく気がついたね」
「いえ……うちの男性社員のおかげです」
 佐倉がいきなり階下に飛び降りたのは、プロジェクターを操作している場面を押さえるつもりだったのだろう。
 それにしても意外だ。人は見かけによらないとこれでまた学んだ。大人しそうなおっさんは荒ぶるおっさんだったし、静かな人だった佐倉は、流血しながら敵と戦う男だったのだ。
 そこに社長がやってきた。社長は警察官1人1人に頭を下げながら、奈々美のいるところに近づいてくる。
「どうもお騒がせしてすいません。今回もまたうちの社員が……いろいろと……」
 社長は頭を下げているが、悪いことをしたわけではない。手法は少し荒っぽかったかもしれないが、とりあえず犯人は捕まえたのだ。
「いえ、若い女の子の住人ばかり、驚かしていたらしいですね」
「そうなんですよ。大家さんから相談されたんで、うちの熱血社員を張り込みさせたんです。そしたら一応若い女の子ですからね、すぐに脅してくれました」
 一応とはどういう意味だ。それに大家さんに指名されて、張り込みをしていたのだ。社長が頼まれたわけじゃないと思ったが、奈々美はここではなにも言わなかった。
 奈々美と麻生の事情聴取はすぐに終わった。けれど佐倉はしばらく出てこない。やっと解放されたときには、額に包帯が巻かれていて、眼鏡は壊れたのでしていないままだった。
「ようし、お疲れ。されじゃ、各自、送っていってやる」
 パトカーに乗せられてここまできたが、さすがに夜も遅くなっていてバスの便もない。社長が送ってくれるというのは助かった。
「社長、わたしは、さっきのマンションに戻ります。部屋、片付けますので」
「明日でもいいじゃないか」
「いえ……戻ります」
 怨霊がいないとなったら、部屋に1人でいても怖くない。それより奈々美は、戻ってからもう少し確認したいことがあったのだ。


 警察で事情を聞かれていた吉田さんは、奈々美よりも遅く戻って来た。奈々美がドアにメモを貼り付けてあったので、すぐに吉田さんは奈々美を自室に呼んでくれた。
「ご苦労様、こんなにあっさり解決するとは思わなかったわ」
 吉田さんは、どこよりもおいしいコーヒーを入れてくれる。しかも夜だからなのか、温めたたっぷりのミルクも添えてくれた。
「夜中にお騒がせしてしまって、すみませんでした」
「いいのよ、それより怪我した人、だいじょうぶだったかしら」
「はい、きっとだいじょうぶです」
 傷ついたのは佐倉だけじゃない。吉田さんもきっと心を傷つけられたはずだ。まさか借り手がそんな犯罪者だったなんて、思いたくはなかっただろう。
「あの変態おじさんを、仲介したのは当社です。申し訳ありませんでした」
 おっさんが部屋を借りたのは半年前、担当したのは麻生だった。保証会社の審査もすぐに通ったので、なんの問題もないと思ったが、とんでもない変態だったようだ。
「違うのよ。これはね、奥様の呪いなの」
 吉田さんはタバコをくわえ火を点けると、ため息とともに煙を吐き出す。その姿は大昔のハリウッド女優のようで格好よかった。
「呪いだなんて……」
「あの男、奥様に雇われていたのよ」
「へっ?」
 とんでもない答えが出てきて奈々美は驚いた。ではあれは、若い女性を狙った変態行為ではなかったのだろうか。
「奥様は亡くなったけど、あの男はそれを知らなかったみたい。お金はもうもらっていたから、忠実に仕事をしているつもりだったのね。もともと盗聴とか盗撮で、何度か捕まったことがあったから、ああいうことが好きだったんでしょうけど」
「けど、なんのためにあんな恐ろしいことしてたんですか?」
「事故物件って、あなたも言ってたじゃない。このマンションの風評被害が広がって、借り手がいなくなるようにしたかったんじゃないの」
「そうか……それで」
 吉田さんにとって、このマンションは生計のための大切な財産だ。その資産価値を奪い、生活を苦しくさせるのが狙いだったのだろうか。
「でも奥様が亡くなった後でよかったわ。これで奥様が生きてたら、裁判とかでまた修羅場をやらないといけないでしょ」
「そうですね」
 生涯、2度と会いたくない相手と、裁判でもめるのはいやだろう。
「でも、あの男からは被害額を取りたいです。よろしければ請求していただけますか?」
 奈々美としては、おっさんがやっていた怨霊騒ぎが原因で、ここをでていった2人の先住者に対して、引っ越しにかかった費用を補償してあげたかった。
 からくりを知らない2人の女性は、心底怯えたことだろう。その精神的なつらさに対する慰謝料も欲しいぐらいだが、最低引っ越しの費用だけでもどうしても取りたい。
「奥様からいくらかもらったんでしょうから、お金、ありますよね?」
「そうね。お金はまだあるみたい。働いている様子もなかったし、なにしている人なんだろうと思ってたら……そういうことだったのね」
 恐ろしいのは死霊じゃない。奥様の怨念だ。夫の浮気相手に復讐するために、多額の費用を使って男を雇うというのは、相当の執念だろう。
「吉田さん、裁判とかおつらいでしょうけど、それが終わったら、ご自身もうんと楽しんで暮らしてくださいね」
「楽しむねぇ。今さら、なにか楽しいことあるかしら」
「ありますよ。カレシとかいないんですか?」
 吉田さんは奈々美の必死な様子を見て、楽しそうに笑い出した。
「今は、いないわよ」
「だったら、あ、70歳以上ってだめですよね。やっぱり同じ歳くらいとか?」
「年下がいいかなぁ」
「年下ですか。それは……残念、わたしの取り合いリストにいないです」
 知り合いリストにある40代以上の独身男性といったら、ほとんどが70過ぎの高齢者になってしまう。さすがにそれでは紹介しづらかった。
「あ、カワウソ、お好きですか?」
「カワウソ?」
「そうです。話題のカワウソカフェ、ぜひ、ご一緒しましょう。カワウソがね、目の前のチューブの中を、すいーって、こう泳いでいくんですよ」
 開店当初は、内心バカにしていたが、カワウソの流れる姿には、やはり癒やし効果があるらしい。気がつくと30分、ぼうっとカワウソを見ていることがある。
「いやなこともね。あんなふうに、すーっと流れていくといいですよね」
「そうね……じゃ、ぜひ、あなたとカワウソ見にいきましょう」
 吉田さんが涙ぐんでいるのに、そのとき奈々美は気がついた。
 奥様のいる男の不倫相手となった自分のことを、吉田さんは内心許せなかったのかもしれない。それで今日まで、罪に服すようにして静かに暮らしていたのではないだろうか。
 これですべて終わりだ。後は心から楽しんで暮らしてもらいたい、奈々美は心の底から願っていた。


 翌日は、部屋を退去するので、出社が少し遅れた。いつもは1番なのに、今日はビリになってしまったようだ。
「おはようございまーす、すいませーん、遅くなりました」
 奈々美が社内に飛び込んでいくと、全員の視線がいっせいに奈々美に集中した。たまに遅刻したくらいで、それはないだろうと思ったら、社長がいきなり駆け寄ってきた。
「おい、ちゃんと化粧してるか?」
「はぁ?薄いですけど、一応、少しは……」
 ファンデーションは地肌に近い色、リップは薄く、目は弄っていない。化粧してもしなくても、ほとんど変わらないのが奈々美の顔だ。
「若葉、どうしよう……ニュース番組の取材が入る」
「へっ?」
 取材、いったいなんの取材だ。まさか昨日のあの件だろうか。
「やらせ怨霊事件ですか?」
「そうらしい。警察官が、べらべらうちのことしゃべっちまったらしいんだ」
「それで取材?」
 こくこくと社長はうなずく。そこで奈々美は、くるっと振り返って出口を確認した。
「あ、おじいちゃんたちと約束あるんで。孤独死なんてことになったら、困りますものね。チラシ、撒いてきます」
「おい、逃げるな。おまえに取材なんだぞ」
「パス、パースッ、社長、よろしく」
 顔出しは自社のホームページだけで十分だ。これ以上、熱血不動産などと呼ばれるようなことにはなりたくない。奈々美はぼうっと立ち尽くす男性社員の間を、カワウソが泳ぐようにすーっとすり抜けて、そのまま外に飛び出す。
 後で間中にこっそりメールして、テレビの取材が終わったら帰ろうと決めていた。
 
 

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