「第6話」 空家問題  宅地建物取引士奈々美の奮闘記

回の休日山歩きは、失敗だったなと、若葉奈々美は思っていた。以前から行きたいと思って、帰りに秋葉原に寄る計画までたてた筑波山、結果はとても残念なものだった。
「佐倉さんに、秋葉原はカレーとラーメンだって情報もらったから、久しぶりに筑波山に登ったんですけどね」
奈々美が働く『不動産ステーション』は、今日は朝から暇だ。隣席の麻生も外回りに出かけず、あくびしながらネットばかり見ている。勝手に話しかける奈々美の言葉を、聞いているのかいないのか、たまにううっと生返事だけしていた。
「ここは巣鴨の地蔵通り? そう思うぐらいの高齢化率高くて、しかも団体でぞろぞろ山登ってるから、ところどころ渋滞してラッシュになってて」
「いいじゃん。若葉、お年寄りの相手するの好きだろ」
「それは仕事だからですよ。はぁーっ、それで帰りに秋葉原降りて、ラーメンかカレーかで悩みまくりましたが、なぜか海鮮ラーメンに……」
「まずかったのか?」
「いえ、予想以上においしかったです。高かったけど。だけどわたし、本来は王道豚骨塩味派なんですよね」
休日明け、どうして麻生なんかとこんな無駄話をしているのだろう。山歩き能力のない麻生にしても、筑波山の山歩きの話題なんて興味はないだろうから、いい迷惑だろう。
そのとき入り口のドアが開いた。奈々美はすぐに立ち上がる。作業服姿の若い男で、髪型や歩き方からチャラい印象を受ける。賃貸物件でもさがしているのかと思って、奈々美は現在おすすめの空室を思い浮かべながら近づいていった。
「こんにちは。本日はどのようなご用件でしょう?」
椅子をすすめ、アンケート用紙を用意しながら笑顔を向ける。男はこういった場所で話すのにあまり馴れていないのか、落ち着かない様子で店内を見回している。
「こちらにご記入願えますか?お飲み物いかがです?コーヒーかお茶か……」
「すんません。若葉って人いる?」
いきなり指名されて、奈々美は驚いた。誰かが奈々美のことを紹介してくれるなんてことは、これまで1度もなかったからだ。
「はい、私が若葉ですが」
「えっ、そうなの?」
男も驚いている。いったい誰から、どのように奈々美のことを聞いていたのだろう。
「なんだ、若いんだね。俺、もっとおばさんなのかと思ってた」
若くてすいませんとも言えない。曖昧に微笑んでいたら、男は照れたのか赤くなっていて、慌てて笑ってごまかしていた。
「あのさ。アパート、建ててる人から聞いたんだけどさ、ここの若葉って人なら、どんな面倒なことでもやってくれるって」
「はい、アパート……ああ、田中さんのご紹介ですか?」
奈々美にとっては上客の田中さんだ。自宅をアパートに建て直すのから、その後の管理まですべて任せてくれている。
「そう、その田中さんだったな。白髪のじいちゃん」
言葉遣いに不自由していそうな若者だ。奈々美はこれは少し、話しを進めるのも苦労しそうだなと思った。
「あのね、警察から連絡があって、おばさんが死んだんだって」
「それはご愁傷様です……」
伯母が亡くなってのトラブルだろうか。男はアンケート用紙のことを思い出したのか、小学生のような下手くそな字で、斉藤等と名前をまず書いた。
「そのおばさんって、うちの死んだオヤジの姉ちゃんだったんだって。おばさんがさ、家で1人で死んでたんだわ」
「それは大変でしたね。斉藤さん、でしたか?お父様からその伯母さんの話は聞いていたんですか?」
「聞いてない。オヤジが去年死んでるから、そんで子供の俺にどうも連絡してきたみたいなんだよ」
斉藤にとってはヘビーな展開だっただろう。よく知りもしない伯母の死を、いきなり警察から知らされたのだ。
「俺と、あと、何人か相続人とかいるのかな。そういうの調べないと、勝手に売れないって田中さんが教えてくれたんだけど」
「その伯母さまの家を、売りたいんですね?」
「うん、俺は、そのまんまほっといてもいいと思ったんだけど、嫁がさ、金になるんなら売れってうるせえんだよ」
若く見える斉藤だが、どうやら結婚しているらしい。嫁には頭があがらないタイプのようだ。
「どうせなら家をぶっ壊して、土地だけ売りたいんだけど」
「解体希望ですか?」
「あんな家、もう誰も住めねぇよ。死体は運び出してさ。焼いて、母ちゃんが骨を祖父ちゃんの墓のある寺に預けたんだけど」
どうやらこの若者は、順序立てて話すのは得意ではないらしい。けれど奈々美にも、だいたいの話は読めてきた。
自宅で孤独死した女性は、親戚との付き合いなどあまりなかったようだ。警察は苦労して相続人になる弟の息子を見つけ出し、連絡してきたのだろう。
「いくらぐらいで売れるかな?」
とらぬ狸の皮算用という言葉は、奈々美でも知っている。どうやら斉藤夫婦は、家の相続と聞いて真っ先に入るお金について考えたらしい。
しっかり者の嫁に、土地の値段をちゃんと聞いてくるのよと、ケツを叩かれている様子が目に見えるようだ。
「ご自宅で病死の場合でも、瑕疵物件となりますので、残念ながら現在の評価額より2割程度低くなると思われます」
「カシ?貸してないよ、まだ」
「いえ、傷物ってことです。自宅での病死は、瑕疵物件扱いにならないものなんですが、発見が遅かった場合などは通知するようにしています」
「死んですぐならよかったのかな」
「はい、倒れてすぐに救急搬送されたような場合は、お亡くなりになっても瑕疵物件にはなりません」
遺族には聞きにくい話しだが、その伯母さんは死後どれぐらいで発見されたのだろう。もしかしたらニュースになっていたかもしれない。奈々美はそう思いながら席を立った。
「飲み物はなにがよろしいですか?」
「あ、アイスコーヒーある?」
「ございます。用意する間に、アンケートお願いします」
アイスコーヒーを用意する前に、奈々美は近隣の地価の相場が書かれた用紙を手にする。住所によって微妙に高低はあるが、都内にしては比較的安い地価だ。
「若葉……」
コーヒーを取りにきた麻生が、さりげなくプリントアウトした用紙を差しだしてくる。そこには数日前の、地元のニュース記事が印刷されていた。
「あ、ありがとうございます」
奈々美と斉藤の話しているのを聞いて、素早く情報収集をしてくれたのだろう。そこには70歳女性、自宅で孤独死、発見まで半年、半分白骨化した遺体というおぞましい文字が印字されていた。
「心理瑕疵物件か……」
「ややこしそうだ。俺にふるなよ」
「へっ?」
今は営業社員が麻生と奈々美しかいない。ここは先輩の麻生に、担当を譲るべきかと思っていたら、あっさりと逃げられた。
ややこしければややこしいほど奈々美は燃える。そういう評価をされているようだが、奈々美だって瑕疵物件は得意じゃない。
「お待たせしました。こちらが現在のこの地域の平均的な地価相場です。上物を処分ということになりますと解体費用がかかりますが、それはご了承願えますか?」
「解体って、いくらぐらいかかるんっすか」
「2階建ての一般的な建坪、30坪くらいの家で150万前後です。当社を利用していただけるなら、できるだけ安い業者を紹介しますので」
「そんで、この土地の評価の8割から150万引いたのが、手に入る金になるのかな?」
斉藤の声に元気が出てきた。8割となっても、かなり満足のいく金額になることがわかったからだ。
「その瑕疵なんとか、黙ってたらだめなの?黙ってたら、10割になるんだよね」
「黙っていてはだめです。最初の売買では告知義務がありますので」
「わかんないんじゃないの?」
黙っていればわからない。それは悪徳不動産屋が使う手だ。『不動産ステーション』では、その手は決して使わない。
「その土地を購入された人が、後でご近所からその話を聞いたとき、そんなことなら買わなかったと裁判になることがあるんです。そうなってしまうと大損になりますので」
お金になると知ると、人間はどんどん欲深くなっていく。奈々美は斉藤がとらぬ狸の数を、脳内で勝手に増やす前に釘を刺した。
「それで、相続権があるのは、何人になりますか?土地を売ることを了承されてますでしょうか?」
「……オヤジには弟がいたけど、もう死んだ。俺に従兄弟がいるはずだけど……あんまり付き合いねぇんだ。昔っから、オヤジたち兄弟って、仲が悪かったみたいでさ」
さすがに斉藤も、そこで気がついたようだ。従兄弟にも当然、相続の権利がある。すべての遺産を独り占めはできないのだ。
「やっべっ。その従兄弟が全部もってちまうの?そりゃねぇべ。俺たちで火葬してよ、寺まで持ってったんだ。臭い家にも入って、立ち会いとかやらされたのにさ。おいしいとこ、その従兄弟がかっさらっちまうのかよ」
「全部、持っていくということはないと思いますよ。ちゃんと話し合って、皆さんで分けるのが普通です。事件を知ったら、斉藤さんに連絡してくると思うんですけど」
アンケートに書かれた斉藤の住所は、都内でも埼玉寄りの北区になっていた。電話番号は携帯電話の番号しかない。もしその従兄弟がたまたまニュースを見ていたとしても、斉藤に連絡してくる方法を思いつくだろうか。
親の仲が悪かったなら、従兄弟も連絡先など知らないに違いない。けれど連絡がつかないからと、斉藤が単独ですべてを進めてはいけないのだ。
「あちらの連絡先、ご存じないですか?」
「知らない。そういうの警察でやってくんないの?」
「そうですね。死因が犯罪じゃないので、警察は斉藤さんに連絡したところでもうこの件に関わるのは終わりなんだと思います」
麻生がさっさと逃げた気持ちはよくわかる。家を売るにはこれからどうしたらいいのか、斉藤に理解させ、納得してもらうのにはかなり時間がかかりそうだ。
「従兄弟が住んでいるところはわかりますか?」
「オヤジは山梨出身だったな。祖父ちゃんの墓参りに、1度だけ行ったことある」
「山梨……」
そのとき奈々美の脳裏に、真っ先に思い浮かんだのは霊峰富士、そしてあろうことか名物料理のほうとうだった。
「そう……山梨ですか。でしたら……その従兄弟さん、探してみましょう。それで相続放棄していただくか、売却した金額の何割かの分配で納得していただくか、決定するというのはどうでしょう?」
「そんな面倒臭いの、やってくれんの。さすが、熱血不動産屋だね」
「……ええ、まぁ」
「どうせなら、俺がいっぱいもらえるようにしてくんないかな」
とらぬ狸が斉藤の脳内で派手に踊り出したようだ。
田中さんが熱血不動産屋と紹介してくれたのは嬉しいが、これは経験値の低い奈々美にとっては荷の重い仕事になりそうだった。

「まーたまた、ややこしい案件を引き受けちまって、どうすんだ?」
奈々美からの報告を聞いた瞬間、社長の泉田啓一は呆れかえる。
「遺産問題に首突っ込んで、どうすんだ?そういうのは、先に弁護士に頼む仕事だろうよ。それで解決したところで、初めて売買の話に持っていく。それならどうにかなるけどな」
「はい……弁護士か司法書士の先生にもお手伝いいただきます」
いつも世話になっている司法書士に頼むつもりだ。奈々美一人では、相続問題まで解決はできない。
「相続放棄してもらうんなら、事故の発覚から3ヶ月だぞ。時間は?あるのか?」
「2ヶ月、あります……」
斉藤の従兄弟が遺産に関していらないと言ってくれれば、斉藤がすべてを独り占めできる。けれどそれには、遺産を受け取った日から3ヶ月以内に、従兄弟全員が相続放棄の手続きをしなければいけないのだ。
たいていの人間は、遺産がもらえるとなったら権利を放棄しない。少しでももらえるほうがいいので、相続を放棄することはほとんどない。
亡くなった伯母さんは未婚で、弟が二人いた。弟は二人とも亡くなったが、山梨にいるという弟の家族のことはよくわからない。どうやら斉藤の家は、親戚づきあいというものをあまりしない家だったようだ。
相続人が多ければ多いほど、遺産となった不動産の売買は面倒臭くなっていく。
「斉藤さんも、亡くなった斉藤初子さんのことは、まったく知らなかったみたいです」
「離れていても、同じ都内に住んでたのにな」
「そうですよね。斉藤初子さんは、長年中央競馬で働いてらして、ご自分で家を買われたみたいですね。警察でそこまでは調べてくれていました」
「一人、相続人候補が見つかったら、警察の介入もそこでおしまいか。そんなだから、相続人不明の空き家が増え続けて、九州と同じ面積くらいになっちまうんだ」
所有者不明の土地が、九州と同じだけの広さがあるということは、これまであまり知られていなかった。最近話題になり始めたのは、高齢化社会も進み、今回のように孤独死となった人が増えてきて、ますます空き地、空き家の相続問題が増えていくことになってきたからだ。
政府もさすがにこれはまずいと思ったらしい。対策を考えつつ、メディアで取り上げて注目度をあげていきたいようだ。
「斉藤初子さんの家、これから見に行ってきます。住所を見ると駅からは少し遠いですが、宅地として十分に価値のある物件だと思いますので」
奈々美がいつもチラシを配っている、高齢者の多い一画の外れにその物件はあった。チラシを入れていたかもしれないが、その家にはあまり記憶がない。住んでいる人と1度でも挨拶すれば記憶に残るが、そういったこともなかったのだろう。
「相続人の斉藤さんが、ちゃんと手続きして売る気になってくれているんで、売りたいんです。もしここで斉藤さんが遺産を受け取って登記してくれなかったら、それこそ問題の空き家になってしまいますから」
奈々美としては、そんな所有者不明の死に土地を、自分の担当地域で出したくないのだ。
「よし、わかった。そんなに売りたいならやってみろ」
「あ、ありがとうございます」
相続人が確定するまではほっとけと、社長は言うかと思った。理解を示してくれたのはとても嬉しいことだ。
「特別に今回は、歩合性にしてやる。売れたらボーナスだな」
「へっ? 歩合? え、えええーっ、い、いいんですかっ!」
ここ『不動産ステーション』では、まだまだ新人の奈々美だ。これまでは基本給しか給与をもらったことがない。歩合なんてもらえるのは初めてだった。
「ああ、うちが受け取る手数料の10%だ。いいな」
「いいなんてものじゃありません。がんばります、がんばっちゃいます」
麻生が面倒がってあっさり譲ってくれてよかった。けれど喜んでばかりはいられない。しなければいけないことが山ほどあるのだ。

相続登記  遺産として土地を受け取ったらどうするのか

遺産として土地を受け取ったら、相続登記をします。このさいにかかる登録免許税とは、登記の申請時にかかる免許代のことです。納める先は法務局です。

かかる金額は相続する不動産の「固定資産評価額×0.4%」と決められています。

仮に1,000万円の評価額の不動産登記を行う場合、4万円になります。

遺産を受け取ることができるのは、配偶者、子です。もし配偶者も子もいない場合は、両親へ遺産がいきます。両親が亡くなっている場合は、兄弟姉妹です。その兄弟姉妹も亡くなっていたら、甥と姪に遺産がいきます。甥と姪の子には相続権はありません。

すぐに相続手続きをしないで放置しておくと、相続人が複数人に増えていく可能性があります。子から孫へと相続権が広がっていくからです。

遺産となった土地に、遺産を受け取る権利者がいたら、全員が相続登記の対象となります。相続登記のさい、全員の署名捺印が必要となります。

「これが空き地が増える原因なのね」
奈々美はパソコンの画面に向かって、とんとんと指でその箇所を突いていた。
「遺産を受け継いだら、すぐに相続登記をしないと、後から相続人が増えてきちゃう可能性があるのか。だけど、行方不明者とか海外在住とかどうすんだろう?」
全員の署名捺印がなければ、相続登記はできない。行方不明の人を探すことなんて、普通に生活している人には不可能に近い。そうして探しているうちに何年もが過ぎ、遺産を最初に受け継いだ人も亡くなってしまうと、相続登記をしようとする人間がいなくなってしまうのだ。
登記していた人間は亡くなり、受け継ぐ人もいない。そうしてできた持ち主不明の土地は、以前は山間部の山などがほとんどだったが、最近は都市部の住宅地でも増えてきている。
「よし、心理的瑕疵物件、見に行こう」
奈々美はパソコンの電源を切り会社を出る。少し遠いが元気に歩き出した。
「しなくちゃいけないことを、忘れないようにしなくちゃ、しなくちゃダブルだわ」
これから斉藤初子さんの家に行き、その帰りにいつも世話になっている司法書士事務所を訪れるつもりだ。
相続登記の手続きなど自分でやろうと思えばできないこともないが、やるとなるとかなり面倒だ。書類に少しでも不備があれば送り返されるし、何度も法務局に足を運ぶことになると、仕事で多忙な人間には負担が大きい。
斉藤は自分には役所の手続きなんて面倒なことは、絶対に無理だという自覚があるのだろう。有料でもいいから司法書士を頼みたいと言っていた。
お金の絡む相続問題は、やはりプロの人間が間に挟まっているほうがいい。ほとんど交流のない親戚なんて、他人と同じだ。他人同士が集まって、いきなり空から降ってきたお金を分け合うことになったら、平和的に話し合いができるとは思えなかった。そんなときにはプロの司法書士が、冷静になって間を取り持つ必要がある。
斉藤ははっきり言わなかったが、どうも土地以外のものも遺産があるらしい。半年の間、電気代や電話代の未払いがなかったのは、銀行の口座にお金があったからだ。中央競馬会で長年働いてきたというなら、退職金や年金でいくらかの貯金はあるだろう。それも斉藤は受け取るつもりでいるようだ。
「なんだか……悲しいな。生きてる間にそのお金で、甥っこや姪っ子と、仲良くしていたらよかったのに」
斉藤初子さんの家に着いた。なるほど、奈々美の顧客である田中さんのアパートの近くだ。チラシを入れていなかったのは、以前、この家の人はお遍路で四国に行っていると聞いたからだった。
「そうかぁ、近所の人はお遍路に行ったと思ってたんだ……」
昭和の時代のように、ご近所づきあいのある地域だ。それなのに半年も姿を見せなかったのに怪しまれなかったのは、みんな斉藤初子さんが口にしたお遍路という言葉を信じて、もう出かけたと勝手に思い込んでしまったのだろう。
家は高齢者の1人住まいにしてはきれいだ。外側から見ただけでは、このまま上物付きでも十分に売れそうに思える。
けれど内部の惨状を思うと、やはり解体するのがベストのようだ。
物件の登記は40年前、当時、大手の不動産会社による大型開発でいっせいに売り出された物件の1つだ。
「30代で一軒家?」
土地は40坪、建物は120㎡、当時としても決して安くはない買い物だっただろう。ローンを組んだにしても、30歳の独身女性で買えたのはかなり貯金があって、頭金が十分払えたからだと思える。
「わたし、あと、5年、『不動産スターション』で働いても、こんな家買えないな」
自社物件だから、家賃は安くしてもらっているとはいえ、基本給だけの生活はかなりきびしい。おかげで好きな山歩きも、月に1回か、せいぜい2回が限度だ。レストランランチなんて夢で、今は自炊でお弁当持参、忙しいときだけコンビニに頼る生活だった。
「夢の歩合給、第一歩、がんばろう」
ここを更地にして売る。本来の売値より2割安くすれば、絶対に売れるという確信があった。
「斉藤初子さん……甥っ子さんと姪っ子さんのためにもがんばります。だから、どうか、力を貸してください」
奈々美は目を閉じ、両手を合わせて頭を下げる。心地いい風が、すーっと顔面を撫でていったような気がした。

三園司法書士事務所に行くと、若い女性が出迎えてくれた。お互いに初対面のはずなのに、もしかして、どこかで会ってましたかの既視感がある。
ヘアサロンの隣席、歯医者の待合室、そんなところを順番に思い浮かべていた奈々美は、突然叫んでいた。
「思い出したっ!かわうそ、『かわうそカフェ』で、会いましたよね?」
「え、ええ。やっぱり、あのウーちゃんご贔屓の人ですよね」
「は、はい」
奈々美が手がけた物件である『かわうそカフェ』、そんな商売、流行るはずないと内心バカにしていた奈々美だったが、気がつけば見事にはまっていた。仕事でストレスがたまると、かわうそを眺めて癒やされることにしている。
かわうそは2匹いて、牡の大きいほうがウーちゃん、牝がソーちゃんという名前だった。この間、紅茶一杯のオーダーで、しばらくウーちゃんを眺めていたときに、隣の席にいたのがこの女性だ。
「どうも、初めてじゃないので、改めましてですね。三園真理恵と申します」
「あ、どうも、『不動産ステーション』営業担当の若葉奈々美です」
どこかぎこちない名刺交換だ。何回かお使いでこの三園司法書士事務所に来たことがあるが、真理恵の姿を見たことはない。どうやら最近、仕事を始めたばかりのようだ。
「私が、今回の件、担当させていただくことになりました。新人ですので、いろいろと手間取るかもしれませんけれど、よろしくお願いします」
やはり新人だ。しかも社長と同じ名字ということは……。
「あの、社長の?」
「はい、娘です。やっと今回から現場で使ってもらえるようになりまして」
「そうなんですか」
ちょっと不安になってきた。ややこしい遺産問題、初めて仕事をするという彼女で大丈夫なのだろうか。
いや、自分だってまだまだ新人だ。それでも社長は奈々美を信じて、難しい案件でも任せてくれている。同じカワウソ愛好家だ。きっと信頼しても大丈夫だろうと、奈々美は浮かんだ不安をとりあえず隠すことにした。
「山梨に親戚がいらっしゃるらしいんですけど」
電話ですでに要件は伝えてある。奈々美は斉藤から預かった、斉藤初子さんの戸籍謄本をバッグから取りだして見せた。
「ご実家のほうは、もうないそうです」
「わかりました。すぐに相続のための家系図、作成しますね」
真理恵は手帳にメモを取るということはしないらしい。タブレットを取りだし、そこにすらすらと書き込んでいた。
「それで、わたしとしては、山梨の従兄弟さんの居場所がわかったら、直接会いに行って、事情を説明してきたいんです」
奈々美の提案に、真理恵は驚いたといった顔にになった。
「えっ、電話で連絡して、書類の郵送でよくありませんか?まだ分け方でもめたりしていないんでしょ?」
「そうかもしれないですけど、わたしは……ちゃんと伝えたいんです。生前、どういう付き合いだったのかわからないんですけど、兄弟とも甥や姪とも交流しないで、お一人で亡くなったんですよね。あの家は……顔も知らない身内への最後のプレゼントなんです」
斉藤初子さんは、まさか急に亡くなるとは思っていなかったのだ。もし終活、死への準備を始めていたなら、遺産についてなにか書き残していたに違いない。
「本当は1度くらい会いたかったんじゃないかな。電話や書類で名前だけ出されても、よく知らない人ですよね。わたしは、近所の人たちから聞いた話しなんかで、斉藤初子さんって人のことを伝えて、それでもらえる遺産は、ただのお金じゃない。伯母さんが一生懸命働いて買った家から、生まれたものだと知って欲しいんです」
「面倒臭くないですか?」
「面倒です。だけど、わたし、熱血不動産屋ですから」
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。真理恵はきっと、なに、こいつ、意味わかんないと思っているのだろう。奈々美だって、すぐに熱くなる体質は、さすがに恥ずかしいと感じてはいるのだ。
「山梨は、富士山がきれいに見えるし、ほうとうがおいしいから、行くの楽しみです。やっぱりお土産の定番は、信玄餅かな」
「あ、なんだ、そこですか。あ、わかるぅ、いつも同じ会社での勤務って、飽きますよね。出張って、不動産屋さんはあまりないんですか?」
「まぁ、わたしのような新人の場合は……」
新宿のヤクザ事務所を見学して、帰りに焼き鳥で一杯がいいところだ。けれど真理恵が勘違いしているように、山梨にただ行きたいだけで志願したわけではない。
「調べてみて、近くに温泉とかあるようなら、ご一緒しようかしら」
「へっ?」
「国内旅行って、あんまり行ったことないんですよ。山梨でおすすめの旅館とかホテル、ありますか」
「い、いや、あの……」
国内旅行にはあまり行ったことかないということは、海外旅行なら山ほどあるということなのだろうか。富士山に宿泊小屋があります。あれって最高ですと言ったら、真理恵に軽く笑い飛ばされそうだ。
「宿泊代は経費で、依頼者持ちですよね?」
楽しそうに言うその一言に、奈々美は大きく首を横に振った。
「日帰りできるような場所に行っての宿泊に、経費は使えません。泊まるなら自腹です」
「えーっ、そうなんだ」
かわうそ仲間だと思ったが、真理恵とは話が通じない。大切に育てられたお嬢様では、困った人を助けるなんて無理なようだ。
「いい温泉で、料理のおいしいところがあったら、行きませんか?」
「自腹ですよ」
「ええ、いいですよぅ」
奈々美はよくない。そんなところに泊まるようなお金はない。どうしても宿泊するなら、ビジネスホテルか民宿で十分だった。
「あの、一人で行きますので」
「あら、遠慮しないでください。私、そんなに気を遣うタイプじゃないから」
あんたが気を遣わなくても、こっちが気を遣うわと叫びたいのを堪えて、奈々美は静かに首を横に振る。
こんなとき誰に助けを求めたらいいのだろう。社長も真理恵を前にしたら、あっ、俺、用事があるからとさっさと逃げ出しそうだ。美人好きの麻生なら、どうにかしてくれそうだが、真理恵に話を合わせてしまい、ますます盛り上げてしまいかねない。
助けはこないと、かわうそウーちゃんが言っている。奈々美にとって最大の危機は、空気の読めないお嬢様攻撃だった。

『不動産ステーション』と車体に印刷された、白の軽自動車。それで山梨に向かっている。助手席にはなぜか真理恵が座っていた。
断れなかったのには理由がある。あの後社に戻ると、三園司法書士が『不動産ステーション』に来ていた。そして奈々美を見るなり駆け寄ってきて、深々と頭を下げて言ってきたのだ。
『若葉さん、申し訳ないが、あの世間知らずに、がつんっと現場の厳しさを教えてやってくれ。年も近いあなたのような人が、信念を持って働いているところを見せて、学ばせたいんだ』
いや、無理、無理、無理と言いたいのに、奈々美はやはりお人好しだ。三園司法書士に、笑顔でうなずいてしまったのだから。
「軽って、お尻、痛くなりません?」
走り出して1時間もしないうちに、真理恵は文句を言っている。
「すいません。現場にいったら、相続関係のことだけを話してください。それ以外は、できるだけ余計なこと話さないように」
真理恵がこの調子で話したら、相手は不愉快になるだろう。そうなったらまとまる話もまとまらなくなってしまう。
「若葉さんも、私がこの仕事に向いてないと思ってらっしゃる?」
「へっ?」
運転中に難しい話をしないでくれと言いたい。なにしろ社名入りの軽に若い女性が二人乗っているのだ。あおられたり、邪魔される可能性があるから、運転も気が抜けない。
「司法書士は困っている人を助ける仕事だから、人間的な包容力が求められるんですって。私には、そういうのがまったくないのに、あとを継がせるつもりで資格取らせて失敗したって、父は言うんですよ」
そのとおりだから、なにも言えない。
「試験も問題なく受かったし、大学院を卒業するまで成績も悪くなかったんですよ。なのに、どうして評価されないのかしら」
「それは、現場が勉強だけではどうしょうもないってことを、三園先生がご存じだからじゃないですか?」
「現場、現場って、意味、わかんない。法律で決まっている手順で、進めていけばいいだけでしょ?」
「そうもいかないことが、いろいろあるんですよ」
斉藤の従兄弟は、男と女が1人ずつだ。兄と妹で、近くに住んでいるのが有り難かった。兄は親から受け継いだ果樹園を経営していて、妹は地元の同級生である自動車修理工と結婚していた。
兄のほうは無口で、内容がわかったのか、ただわかりましたと言っただけだ。逆に妹のほうは、1人幾らもらえるのだとか、本当はもっと隠しているだろうとか、ともかく執拗に質問してきた。
あの様子では、斉藤の出した案に簡単に同意するとは思えない。もめそうで奈々美としては憂鬱だ。
斉藤としては、分けるなら経費をすべて引いて、4.3.3が最低譲歩だという。自分たちは遺体の処理も行ったし、これから売るための手続きもする。だから余計にもらいたいということだった。
それはもっともな言い分だ。遺体を火葬したり、寺に預けるまではちゃんと誠意を持ってやっている。これから売買することになっても、やはり都内に住んでいる斉藤が中心になってやっていかなくてはいけない。内心は半分はもらいたいくらいだろう。
「お金を前にすると、人間っておかしくなるじゃないですか」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
お金に苦労したことのないお嬢様は、『レ・ミゼラブル』などのように、お金で追い詰められる人間の話などご存じないらしい。
「パンを盗んでも19年ですよ」
パンを1本盗んだだけで刑は19年という、フランスの有名な物語だ。映画やミュージカルになっているし、教科書にもその一部が掲載されている。
「あ、ジャンバルジャンね。どなたのジャンバルジャンがお好き?私も毎回、帝劇には行きますけど、1番って決められなくて」
だめだ、こりゃ。そう言いたくもなってくる、お嬢様攻撃で返されてしまった。どうやらメインテーマの貧乏苦労の話より、ミュージカルの主役のほうが大切なようだ。
「いや、あのですね。お金が絡むと、しなくていい苦労をするってこと、言いたかっただけです」
「あら、そうでしたの」
真理恵はもっとミュージカルの話をしたかったらしい。がっかりしたようだ。
「妹さんのほうは、素直に認めてくれないかもしれないんですよ。急に空から降ってきた遺産だから、舞い上がっているんだと思いますけど」
電話でもどうして警察は、自分たちに先に連絡してくれなかったのか。自分だって火葬ぐらいはしてやったと言い、自分の取り分が少ないことに文句ばかり言っていた。
もし妹が了承しなかったら、あの家はあそこで朽ちていくだけだ。そして従兄弟と斉藤が亡くなった後は、国のお荷物になっていく。
斉藤や従兄弟の子供には、今は相続の権利がないが、3人がそれぞれ登録しておけば、みなの子供にも相続権が発生する。そうなると余計にややこしくなるのは事実だが、いつか誰かが売りにだすことは可能だ。
富士山が見えてきた。その途端、奈々美は元気になってくる。鬱々としていた気分は吹き飛び、やる気がめらめらとわいてきた。
「うまく説得して、実印、押してもらわなくちゃ」
真理恵はあてにならない。むしろ邪魔になるだけだ。ここはなんとか、奈々美ががんばるしかなさそうだ。

「かかるお金を引いて、後は3分の1ずつにして。そうでないと印鑑押さないから」
妹の家を訪れると、子供のおもちゃが散乱する居間に通された。家は新築で、都内の平均的な住宅に比べてかなり広い。地価が安い地方の強みといったところだろうか。
ソファに座った途端に、言われたのがこの言葉だ。
電話で説明してあったので、必要な書類はそろっていた。けれど肝心なところに判と署名がされていない。
「これは不動産だけでしょ?現金とかあったはずよ。それも分けてよ」
それは奈々美の管轄ではない。現金などの遺産は真理恵の出番だが、なにも言わずにただタブレットを見ているだけだ。余計なことはしゃべるなと言ったが、さすがにここではなにか言って欲しい。
「これから家を解体するのにお金がかかりますので、すべての精算が終わってから、そのお話はしていきたいそうです」
売れるまでどれぐらいかかるかわからないので、斉藤としては現金の遺産をしばらく自分が管理したいようだ。そう聞いていたのでそのまま告げると、妹は怒り出す。
「なんで、その従兄弟が勝手に仕切るわけ?1番最初に連絡がいったってだけでしょ。本当はもう、おばさんのお金を使い込んでいるんじゃないの」
「いえ、それは……ないと思いますが」
「なんでその従兄弟が来ないの?そいつ本人がくれば、話が早いんじゃない?自分の思い通りにならないと困るから、来たくないんでしょ」
妹の勢いに押されまくりだ。やはりお金の問題を前にすると、人は強さを発揮するものらしい。さすがに奈々美も、返す言葉に詰まってしまう。
「悪いのはあのおばさんなのよ。お父さんが言ってたけどさ、病気のお祖父ちゃんに遺言書かせて、ぜーんぶ、自分のものにしちゃったんだから」
「えっ……そうだったんですか?」
それは聞いていなかった。だが親戚間の交流のなかった謎が解けた気がする。斉藤初子さんは、父親の遺産を独り占めしたのかもしれない。だから30代で、一軒家も楽に買えたのだ。
「うちのお父さんがもらったのは、畑だけよ。伯父さんはお金とトラックもらって、東京に行ったきり。牧場も元の家も、みんな伯母さんが売り払ったんだから」
「牧場?」
「祖父ちゃんは競走馬を飼ってたの」
「それで……」
斉藤初子さんは、その縁で中央競馬会で働いていたのだろうか。馬とずっと暮らしていたから。特別馬が好きだったのかもしれない。
「遺産なんて言ってるけどさ、あれは元々、あたしたちのお金なんだから」
そう考えたくなる気持ちもわかるが、この妹が独り占めすることはできない。今は3人に相続権があるのだ。
「あのぅ、では、こちら松井由子さんが、代表相続者になられますか?」
やっと真理恵が口を開いた。そしてタブレットの画面を開いて、妹に見せている。
「そうしますと、土地が売れるまでの固定資産税、当方の司法書士費用など、松井様がお支払いになることになります」
「なに、その固定資産税って?」
「相続なさるということは、税金も引き継ぐということです。売れるまで何年かかるかわかりませんが、その間の固定資産税は代表相続人様の負担となります」
「そんなのみんなでだせばいいじゃない」
「お二人が了承してくだされば、それも可能です。それには残りのお二方の了承の書類が必要になります」
東京の斉藤も、自ら代表を名乗り出たのだ。代表になったからといって、特別分け前が増えるわけではない。彼は彼なりに、東京にいる自分のほうが、いろいろな手続きをするのに便利だと思ってくれたのだろう。
「東京の従兄弟にも頼めってこと?」
「そうですね。こちらの書類では、代表様、斉藤様になるようにして作成してまいりましたので、後日、すべて新しく書き換えが必要になります」
そんな面倒なことなのかと、奈々美はため息を吐いた。
これでは相続放棄をする人が増えるわけだ。手続きは面倒で、しかももらった遺産が売ることもできないようなものだとしたら、ほうっておくに限るとなってしまう。
「代表様がお支払いいただく年間の固定資産税はこちらになります。未納になりますと、差し押さえ対象になりますから、すべて国に没収されますので、必ず払ってください」
いたって冷静に真理恵は話している。それを聞いて、奈々美はぼかんと口を開いていた。
すみませんでした。確かに、あなたは優秀だ。妹の弱点、入るお金にはこだわるが、出ていくお金のことは考えたくないというところを見事に突いていると、奈々美は感心してしまった。
「こんなに高いの? その固定資産税って」
「はい、こちらの『不動産ステーション』の地価評価を元に、計算しました。毎年、この固定資産税を支払うのと、すぐに売りにだすのと、どちらがいいと思いますか?」
「それは……」
「家が壊れたり、放火されたりしてご近所が被害を受けた場合、賠償金も発生します。それは代表様のご負担となります」
「ちょっと、ちょっと待って。なにその、代表様の負担って」
「この後、相続税の問題もでてきます。相続税は、受け取った遺産によって違いますが、代表様のところに税務署から通知がまいりまして、支払う義務があります。相続した三人で分けるにしても、期日までに支払うのは代表様の役目です」
家や土地を相続するのは、単純にお金がもらえてハッピーというわけではない。相続税に固定資産税を支払わないといけないし、煩雑な名義変更の手続きをお金をかけてやらないといけない。面倒臭いからと放置したら、遺産を受け取る全員が脱税したことになってしまうのだ。
「書類に不備がありますと、法務局に直接行く必要があるかもしれません。後、税務署と、区役所ですね。それと、まだ調査の段階なのですが、斉藤初子さんは、お父様の負債を返済なさっていますが、まだ完済していないかもしれなくて」
またもや初耳だ。奈々美は驚いて真理恵のタブレットを覗き込む。
「借金があったんですか?」
真理恵はいつ調べたのだろう。斉藤牧場倒産の記載があった。
「はい、牧場経営に失敗されたようですね。家と牧場を売却されたお金で、斉藤初子さんが払ったようですが」
欲深な長女が、父親の財産を独り占めという話ではなかったのか。けれど奈々美としては、斉藤初子さんが欲深なだけでなかったのが嬉しい。
「借金がまだあるの?」
妹は慌て始めた。借金というのは、予想外だったようだ。
「借金があっても、資産のほうが多ければ、残りはもらえます。金額は少なくなるかもしれませんが」
「じゃ、借金は払わなくてもいいのね」
「はい……」
そこで妹は書類を広げ、次々と署名して判を押し始めた。
なんだか思ったより面倒臭そう、借金なんてあったら損しそう、そういう心理が妹の手を急がせたらしい。
やった、歩合に一歩近づいた。喜ぶ奈々美だったが、真理恵はたいして嬉しくもないのか、無表情のままで次々と書類を差しだしていた。

これで1番厄介な妹のほうは解決した。次に奈々美と真理恵は、兄の果樹園を目指す。
「すいませんでした。余計なこと言うななんて言ってしまって」
素直に奈々美は謝る。すると真理恵は、嬉しそうに笑った。
「仕事ですもの。あの人、入るほうには詳しいけど、出るほうは詳しくなかったでしょ。お友だちとかが遺産をもらう方法は教えてくださるんでしょうけど、かかるお金のことはよく知らないみたいですね」
「あんなに文句言ってたのに、三園さんの言葉で慌ててサインしてましたよね。すいません、わたし、三園さんって、使えないお嬢様認定していました」
正直者の奈々美は、これまで隠していた本音をついすべてぶちまけてしまった。
「若葉さんって、正直なんですね」
「はい。嘘は下手です。ばば抜きはいつも負けますね」
きっとあの場ではらはらしていたのも、真理恵には見抜かれていただろう。
「借金のことなんて、よく調べてくれましたね」
「本当は、先代がお亡くなりになったときに、牧場と家を売ったお金で借金は帳消しになってました。少し余剰金もあって、それで斉藤初子さんは、あの家が買えたんですよね」
借金などないのに、負の遺産があるように匂わせて、真理恵は妹にサインをさせることができのだ。
「けどお父さんの借金払ってあげたのに、どうして初子さんは兄弟とケンカになったんでしょうね?」
奈々美にはそこがわからない。いいことをしたのに、それを兄弟に告げないなんて、自分が損をするだけではないだろうか。
「きっとお父様の名誉を、守りたかったんじゃないですか?牧場の経営が破綻していたこと、弟たちに知らせたくなかったんじゃないかしら」
「そっかぁ、考えもしなかったな。三園さん、すごいです」
斉藤初子さんの名誉を回復してあげたいが、残念なことに弟二人はすでに亡くなっている。せめて甥や姪が、伯母さんの真実を理解して欲しいものだ。
兄の果樹園に着いた。ブドウと桃をやっている、かなり大規模な果樹園だ。
「うわぁーっ、もう少し、早い季節に来たかったなぁ」
すでにブドウも桃もシーズンは終了している。残念な思いで事務所を訪れると、婦人が笑顔で出迎えてくれた。どうやら従兄弟たちの母親らしい。
「いらっしゃい。わざわざ東京から?すいませんね。義姉さん、亡くなったんですってね。付き合いがなくって、なにもしらなくて」
「ご近所の方が、四国のお遍路に出かけたと思ってらして、それで発見が遅れたみたいです。死因は特定できなかったみたいですが、ベッドに寝たまま亡くなっていたので、恐らく心臓かなにかの病気みたいですね」
「お気の毒にね。お父さんは、義姉さんのことを欲深女だなんて、ずっと悪く言ってたけど、あれなんですよ、果樹園の仕事が嫌いでね。お兄さんが本当はここを継ぐはずだったのに、トラックに乗って東京に逃げたって、お兄さんまで恨んでてね」
「ご主人、果樹園の仕事が嫌いっておっしゃってても、ものすごく立派な果樹園じゃないですか」
「いいえぇ、これはね、息子の代で大きくしたんですよ。お隣が高齢で廃業したからね。そこを買い取って、大きくしていったんです」
なるほど、兄が遺産に飛びつかなかったのは、これで理解できた。彼は自力で成功したから、棚から落ちてくるぼた餅には興味がないのだ。
「さ、どうぞ」
そこで出されたのは、桃のコンポート、少し洋酒で香り付けしてある、桃の砂糖煮だ。
「うっ!」
うまいと言いそうになって、奈々美はぐっと言葉を飲み込み、続けてコンポートを口に運ぶ。
「おいしい……おいしいです、奥さん、わたし、山梨にはよく来ますけど、こんなおいしいのは初めてです」
「よかった。うちの自慢なんですけど、数が作れなくてね。道の駅で売らないかって誘われてるんだけど、やっぱり一人じゃね」
コンポート作りから始まって、道の駅の話題までお母さんの話は止まらない。ひたすら相づちをうち、話し相手をしている奈々美だが、真理恵は興味ないのか食べ終えるとタブレットを開いていた。
そこにやっと兄がやってきた。体の大きいもっさりとした感じの男性で、挨拶といっても軽く頭を下げただけだ。
すると真理恵は途端に生き返り、今回の相続について奈々美を差し置いて話し出す。奈々美はその間、お茶とコンポートのお代わりをもらって、ゆっくりくつろいでいた。
「初子さんもね。可哀想な人だったのよ。騎手の人と付き合ってたんだけど、落馬事故で亡くなってね。それからはずっと独身でさ」
まだ話したりないお母さんは、ついに斉藤初子さんの過去についてまで話し出した。
「うちのお父さんは、自分が東京に行きたかったのよ。それが兄さんと姉さんだけが東京暮らしでさ。文句ばっかり言ってたね」
奈々美がそうですかぁとうなずいている間に、兄のほうはさっさと書類に署名捺印をしていた。本当にもらえるものには興味がないらしい。真理恵の説明も聞いているのかいないのか、一言も話すことはなかった。
「お墓はどうするの?」
お母さんは話すのと同じぐらい、新しい情報を聞くのも好きらしい。きっと兄がいなかったら、初子さんの死亡状況について、しつこくいろいろと聞いてきただろう。
「東京の斉藤さんが、お兄さんの菩提寺にお骨を預けています。落ち着いたら納骨される予定です」
「兄さんのお墓に?こっちにも先祖代々の墓があるのにね」
いや、お墓をどうするかまでは、ここで決めないで欲しい。そういうことはぜひ従兄弟同士で話し合うべきだ。けれどこの寡黙な兄は、東京にいるチャラい従兄弟と会うこともないのだろう。
「あんちゃん、お金が入ったらどうすんの?」
お母さんに話しかけられても、兄はむすっとしたままだ。
「まったく、嫁や孫でもいれば、使う楽しみもあるのにねぇ。ところで、あれ、不動産屋さんは、カレシとかいるの?」
「へっ?」
「富士山、好きなんでしょ。うちの畑からは、毎日富士山が見えるよ」
「いや、いやいやいや……」
ここでまた1つ学んだ。気さくに話しかけてるご婦人には用心が必要だ。思ってもいなかった嫁にこないか攻撃が仕掛けられる。
「カレシ、いますので」
そんなものは今はいない。大学時代の屈辱デート以来、男性とまじめにお付き合いしたことはなかった。けれど嘘も方便とは、こういうことなのだ。
「へぇ、どんな人?その人、稼ぎはいいの?イケメン」
攻撃の手は緩められることはなさそうだ。そこで奈々美は、恐ろしい必殺技を繰り出した。
「こ、この人です」
田中さんの孫と大学時代からの親友、それになぜか麻生の混ざっている、富士山登頂写真をお母さんに見せる。するとお母さんは、なぜか勝ち誇ったような顔になった。
「悪いけど、あんまりいい男じゃないね。痩せてるし」
「は、ははは。同業者で、営業成績はいいんですよ」
「そうなの。もったいない。不動産屋さんみたいに可愛いお姉さんがねぇ」
いつまで続く好奇心攻撃、誰か助けて、かわうそウーちゃんと思ったとき、兄がぼそっと口を開いた。
「母さん、失礼だろうが。手紙でも用が済むのに、死んだ伯母さんのためにわざわざここまで来てくれたんだ。迷惑かけるんじゃない」
「おっ……」
危ない、危ない、ちょっといいと思ってしまいそうだった。兄がどんなにいい人でも、奈々美はこの果樹園に嫁にくる気はさらさらない。奈々美を待っているのは、『不動産ステーション』、宅健の資格を活かして働ける場所だった。

「見て、見て、富士山が見える」
真理恵は喜んで、露天風呂に飛び込んでいく。
役所に寄る時間がなくなって、結局、1泊することになってしまった。真理恵が予約したのは高級旅館で、奈々美としてはかなりの痛手だ。けれど食事をしていけ、なんなら泊まっていけばのお母さん攻撃から逃れるには、もう宿を予約してあるといって逃げるしかなかったのだ。
お高い旅館だが、やはり風呂はいい。露天風呂で夕暮れの富士山を見られるなんて、1年に1度あるかなしの贅沢だ。
「やっぱりいいなぁ、富士山」
「でも意外。若葉さん、カレシいるんだ?」
「あ、あれは違います。嘘も方便、必殺回避技です。彼は同僚で、一緒に山登りしている、田中さんのお孫さん目当てでついてきたんです」
「なんだ、あなたならカレシくらいいると思ったのに」
「ウーちゃんでいいですよ」
歩合で稼いだ分で、贅沢をしている。こんな贅沢がいつもできるほど、稼げるようになるだろうか。
「三園さんは、いるんですか?」
女子というものは、そういう話題をふられたら、自分もあなたに興味がありますよと示さないといけないのなのだ。真理恵のカレシなんてどうでもいいが、ともかく聞くだけ聞いてあげるのが、正しい女子力というものだった。
「斉藤さんの話、悲しかったわね」
突然、思い出したのか、真理恵は悲しそうな顔をする。
「カレシが亡くなった後、新しい恋人、作らなかったんでしょ?」
「そうですね……」
でも、それを可哀想だとは思わない。いくらでもチャンスはあったはずだ。なのにそっちに行かなかったのは、恋人を作るよりも楽しいことがあったのではないだろうか。
「家も持ってて、好きな仕事やっていられたら、カレシなんていらないですよ。そう思いません?」
「そうなの?そこまで達観しちゃうの?」
真理恵お嬢様は、仕事だけでなく、しっかり恋愛も楽しみたい体質らしい。
「わたし、男性に食事、おごられるの嫌いなんです。そういうのって、可愛げないって言われて……けど、自分の食べた分くらい、自分で払いたいですよ」
「たしかに、可愛くないわねぇ。なにかトラウマになるようなことあった?」
「……」
今度は真理恵が、優しいお姉さん攻撃を始めた。こういう女性的なものが、奈々美は苦手なのだ。
「わたしのことはいいですよ。三園さんのこと話してください」
「それより富士山の話を聞かせて。私、登ったことがないの」
真理恵は正体不明だ。自分のことを話すようで、実はあまり話していない。のらりくらりと、その場に合わせて態度も変えている。奈々美が直球なら、真理恵はくねくね変化球だろうか。
露天風呂で富士山を見ながら、富士山のことを語る。それもいいかなと思って、奈々美は初めて富士山に登ったときのことを話し出す。すると真理恵が、感心したように言ってきた。
「若葉さんって、誰とも同じようにちゃんと話せるのね。そういう才能が、私も欲しい」
「へっ? そうですか? これって普通ですよ」
「普通じゃないでしょ。誰とでも、好き嫌いしないでちゃんと話せるのは、才能よ?私、さっきのお母さんみたいな人、絶対にだめ。笑って話したりできない」
それは営業上問題だろう。けれど真理恵はネイルサロンで働いているわけではないから、人当たりのいい話し方などしなくてもいいのかもしれないが。
「ま、わたしは不動産屋ですから、愛想よくないと、仕事にならないんで」
もちろん愛想だけで仕事をしてきたわけじゃない。誠意をもって何事にもあたる。それが奈々美のポリシーなのだ。

斉藤初子さんの家は、あっという間に更地になった。後は年内に売れることを願うだけだ。来年からは固定資産税の支払い義務が発生する。奈々美としては、それを新しい買い手に負担してもらいたいのだ。
更地に売り地の看板を設置する。そこには『不動産ステーション』の連絡先が書かれていた。
「売れるといいな」
売れて初めて不動産手数料が発生する。その1割が、奈々美にとっての歩合給だ。
看板の具合を確かめてから帰ろうとしたら、目の前に真新しいベンツが停まった。そして中から、派手なスーツ姿の男が降りてきた。
「お嬢さん、ここの会社の人?」
「はい……」
イントネーションが少し変だ。どうやら外国の人らしい。
「ここ、亡くなった人の土地ね。お金、安い?」
「えっ、ま、まぁ」
「そ、じゃ買うよ」
「えーーーっ!」
どうやら斉藤初子さんは、外国からお客を呼び寄せてくれたらしい。
「でも、どうされるんですか?この辺りは住宅街なので、お店とか向いてないですよ」
「いいの。買う、何年か寝かせる。そうすれば、悪い噂消える。また高く売れる。投資よ、投資」
「は、はぁ……」
買ってくれるのだから、文句は言えない。けれどあからさまに投資と言われると、奈々美の思いは複雑だ。
「時間過ぎたら、またあなたに売らせてあげるよ。それで、他にこんな土地ない?マンションでもいいよ」
「探しますので、よろしければお名刺いただけますか……」
「ああ、そうね。よろしこ」
渡された名刺は、金で飾りが装飾されている。どうやら本物の金を使っているようだ。『李奉明』と名前と電話番号だけ書かれた名刺だった。
奈々美の渡した名刺を、李はしばらく見ていた。そしてふんっと鼻を鳴らすと、またベンツに戻っていく。
「明日、電話するよ。物件、よろしこね」
「は、はい……」
チャイナマネーがこんなところまで押し寄せてきたのだろうか。それともこれは、またなにか特殊な詐欺なのか。
奈々美は背後の土地を振り返る。ここはいったい、誰のものになるのだろうと思いながら。

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