Column家づくりの知識

不動産の売却話 「家族が寄り添う家」

私にとっての運命の日は、テレビから、午後のドラマを遮って始まった気象情報がひっきりなしに流れていた日でした。
ざああ、と、雨の音が窓ガラスを叩いていました。
『今回のゲリラ豪雨は数十年に一度の規模です。避難警告の出ている地域にお住いの皆さんは至急避難を行ってください――』
夕食の準備をしていたわたしは、確かにいつも以上の雨だなと思ってはいたものの、それほど大したことだと思っていませんでした。
ばたん、と大きな音を立てて扉が開いて、いっそう雨の音が強くなったのを覚えています。
「お母さん! 外、やばいって! 避難しないと!」
「えー? そうなの?」
「そうだよ! 早くっ」
息子の焦った声を背中に聞いた、その瞬間でした。
床からじわりと水がしみだしてきたのです。
「え?!」
「お母さん、早く!」
私は混乱しながら、貴重品を慌ててまとめ、息子に手を引かれて外へ出ました。外は息子の言う通り大変な雨で、ほとんど前も見えないくらいでした。
息子のほうがしっかりしていて、私には避難所に着くまであまり記憶がありません。夫もそれからしばらくして合流しました。
避難所となる体育館の床が嫌に冷たく感じました。
何日か続いた雨が上がって、家に戻った時、私は愕然としました。大雨によって家が浸水し、ところかまわず水浸しになっていました。家具も床も泥にまみれ、とても生活できるような様相ではありませんでした。うちはまだいいほうで、車が雨に流された家もあったようです。
とにかく、わたしたちの家は、元の姿に戻ることができなくなってしまったのです。

それでも一通りの掃除を済ませてから、私たちは3人で話し合いました。
私は自分の判断が遅かったことで、家の財産が水と泥にまみれてしまったことに責任を感じていました。息子が助けてくれなかったらあるいは死んでいたかもしれない事実にも打ちのめされました。
その時私は、ほとんどうつ状態に近いような感じだったのかもしれません。
夫と息子は、引っ越しを勧めてくれました。幸か不幸か、災害認定をされたため、補助金が出ると言うのです。
一度仮設住宅に引っ越し、そのあとで新居へ引っ越す。そういう手はずに、決まりました。

ですが、私と夫と、息子の三人でずっと住んできた家です。少しずつ家具もそろえてきました。私にとっては家が、場所が財産です。
そこから離れてしまうことは、私にとってはとても心苦しいことでした。災害のせいとはいえ、失いたくなかったのです。
わたしたちが築き上げてきた、たった一つの居場所を。
仮設住宅に住み始めてから、やはりどこかよその家のような違和感を覚えました。ここはうちじゃない。そんな感じです。
息子が眠り、私と夫が二人で寝室に入り、布団をかぶっても寝られずにいると、暗闇の中、夫の声が隣から聞こえてきました。
「大丈夫か」
「ええ……」
夫は私を心配してくれていました。結婚してずいぶん経つし、こんな事気恥ずかしいと思っていましたが、夫がそっと私の頭を撫でてくれました。
その温かさに、ぽろりと涙がこぼれてしまいました。
「わたし、あの時どうしてしっかりできなかったのか……もっと色々できていたら……、あの家だって、もっと綺麗にしたりリフォームしたらよかったのかもしれないのに、私のせいで、」
「馬鹿だな」
「馬鹿って……」
夫は私の半身を抱き上げ、頬を両手で包んで言いました。
「君が生きているだけで、俺もアイツもうれしいに決まっているだろう」
夫はほほえんでいました。
「俺は後悔していないよ。だって考えてみれば、人生で一番の買い物を2回もできるってことだろ? それって結構、貴重な体験だと思わないか?」
夫の言葉に涙を零しながら、私は何度も何度も頷きました。

それから3年後。わたしたちは仮設住宅から出て、新しい家に引っ越しました。
住んでいた家を売却し、それに伴う補助金をもとにして、最初に住んでいたところからそれほど遠くない中古住宅への引っ越しでした。周囲がそれほど大きく変わったわけではありませんでしたが、新しい環境に夫も息子も元気で、わたしもその空気に少しずつ慣れていきました。
すこしずつ、すこしずつ、わたしは考えが変わっていったように思います。
家の中にある家具や、家自体が、私にとっては愛の象徴のように思えていましたが、それは違ったように思うのです。
そこで生活する夫と息子。そして、わたし自身が笑顔でいられること。
それが、ひとところに固執してとどまることよりも大切なことなのだと思えたのです。
いま、わたしたちは昔の家を売って、新しい家に引っ越したことを、後悔していません。
ここはわたしたち家族が寄り添う「家」なのですから。