column

家づくりの知識

不動産の売却話 「桜の木の思い出」

それは綺麗に晴れた春の日の事だった。
妻が亡くなって数年が経ち、娘や息子もずいぶん前に巣立っていってからは帰省するのも盆、正月くらいで、なかなか家に戻ってくることもなくなった。かつてはきれいな一軒家だったが、俺の歳と一緒に家も歳をとった。自分一人で住むには広すぎる家、一層のこと売ってしまおうと、不動産屋に話を持ち掛けたのだ。

「大変申し上げにくいんですが」
初めに来た営業マンは、少し言いにくいように言葉を濁してそう切り出した。
「はい」
「築年数が随分経過しておりますね。内装も個所箇所が痛んでおりますので、これですといったんリフォームをしてから売りに出すことになるかと思います」
「と、いうと」
「売るよりも直すほうが、金銭的に負荷がかかると思います」
「そう、ですか……」
「あとは、土地のみにしてしまうとか」
「土地のみ……?」
「家や庭を取り壊してしまって、土地のみにして販売するんです。どこかのご家庭に売りに出すよりも、不動産会社に売ってしまうんですよ。そうすればここに新築の家を建てられますし」

「それはお断りします」

つい強い口調になってしまってから、ハッとしたが、営業マンはそうですかと不満そうにつぶやいたきり、あとは面倒そうに俺の話を聞くだけで、とてもこの家を買ってくれる気配はなかった。

それから何社かの不動産会社の営業マンに会ったが、どこの回答も似たり寄ったり。家を取り壊して、庭を掘るしかないと。
縁側に座ると、もう散り始めの桜の木が目に付く。
俺がこだわっているのは、古びた家ではなくて、この桜の木だった。
確かに家にも思い出は残っている。妻と子供と暮らした家だ。だが、ここは売ろうと決めた。しっかり決別もした。しかし、庭に植えた桜の木だけは違う。
第一子が生まれた時に家に植えた桜の木は、子供の成長と同じように成長し、いまや花は近所の評判になるほどの美しい大木になった。
この木は、ずっと俺たちの生活を見守ってきてくれた、まるで3人目の子供のように大切ないのちだった。

できるなら、この木だけは守りたい。この木を大事にしてくれる人に、この家を売れたらいい。
それから、なんと一年が経った。ぼろ家で取り壊しもできないという評判が立ったのか、どこの不動産業者も全く相手にしてくれず、それどころか担当営業すらも進捗報告に来てくれなくなっていた。私は半ばあきらめたように、今年も鮮やかに咲き誇る桜吹雪を見ていた。

ぴんぽーん。
さわさわという風の音に紛れた間の抜けた電子音。俺は今日は来客のある日だったかと不思議に思いながら玄関へ向かった。
「お忙しいところすみません」
そこには気のよさそうなスーツの女性が立っていた。差し出された名刺は、俺が最初に会った不動産会社の営業だった。
「担当が変わったんですか」
「違うんです」
「ではどんな御用で」
慣れない手つきで茶を出す私の後ろから涼やかな声が降ってくる。茶をかちゃりと古びた木のローテーブルに置くと、女性はにっこりと笑った。
「実は、このおうちに買い手が付きそうなんです」
「え_」
「家も庭もそのままでいいと、こちらで家の中の修繕もするからとおっしゃっています。いい条件だと思うのですが、いかがでしょうか」
「待ってください、それはうれしいお話ですけど、どうしてそんな急に」

「実はこのおうちの担当営業から私が話を聞きまして。私のお客様でどうしても桜の木のある家に越したいという方がいたんです」
「それはまたなぜ」
不審な俺に、女性は柔らかくほほ笑む。

「実は、私のお客様で、老夫婦の方がおりまして。奥様がお病気なんです。余命もあまり、長くないそうです。それで、どうしても、桜の木のある家で最期を迎えたいというご希望がありまして」

「それは……そうですか」
「このおうちを、外から見たことがあるんだそうです。とてもきれいな桜の花が、強く印象に残っていると。大切に使われた、にぎやかで、素敵なおうちだったと、おっしゃっていました」
俺は、この申し出をその場で受けることにした。
自分が大事にしてきたこの家を、桜の木を、きっと大事にしてくれるだろうと確信したからだった。
俺はそれから、家をその老夫婦に売ると、その金を元手に一人で住むに十分なマンションを借りた。慣れない集合住宅に戸惑うこともあったが、近所づきあいにも慣れてきた数か月の後。俺の家に一通の手紙が届いた。
老夫婦の、夫のほうからの手紙だった。
あのあと、満開の桜の下で妻が亡くなった。結局家を改修することはなく、そのままの家に暮らしている。本当に感謝している、と書かれていた。
俺はその手紙を、あれから数年が経った今でも大事に取っている。

桜の季節になると思い出すのは、妻の姿、それから、ほほ笑んだ老夫婦の姿なのだ。