ひゅうう、と冷たい風の吹く冬の日。今日は今年一番の寒さだと言われている。
「寒いですねえ」
「そうだな。今年一番の寒さだってよ」
「そうなんですか」
「そうなんですかって、先輩に対してお前ねえ」
「すいません」
会社の先輩は、全くとつぶやいて、窓の外をちらっと見る。今日届いている手紙を配っている事務員の子から私が一通の手紙を受け取るのを見て、あ、その名前、と言う。
「そういえば、その手紙の作家の先生の家の売却。あれも確か、このくらいの時期じゃなかったか」
「そうですね。もう二年になりますけど……」
私が不動産業界に勤めてから、今年で5年になる。
三年目の冬、私は思いがけない紹介で家を売るお手伝いをしていた。
その日も冬の寒い日だった。東京では珍しく雪が降り、厚手のコートの襟を合わせて外回りを終えた時、一本の電話が私の携帯に入った。
「はい、もしもし」
「ああ、お久しぶりです。弁護士の――」
それは昔お世話になった弁護士の先生からの電話だった。個人的な付き合いはあまりなかったのだが、不動産業界にいるとたまにこうやって弁護士さんとのやり取りも発生する。先生の話を聞くに、家の売却の手伝いをしてほしいというのだ。
どうやらすこし特殊な件のようで、一度クライアントと会って話をすることになった。
私が良く使うのは駅の地下にある落ち着いた喫茶店。コーヒーを頼んで、そこで待っていると、先生と、一組の家族が入ってきた。
「お待たせしました」
「いえ、先生、お久しぶりです」
「お久しぶりです。こちら、今回の依頼人の方々です」
「はじめまして」
夫と妻、そして娘。それが家族構成だった。
夫はロマンスグレーが素敵な初老の男性。妻は夫よりは幾分か若いようだ。娘は高校生くらいだろうか。
私は渡された名刺に目を丸くした。
「あの、もしかして作家の……」
「はい。ご存知でしたか」
ご存知どころか、その道では有名な作家の先生だった。遅咲きの天才として最近人気の高いミステリー作家。
本も全部持っている。
「そ、それで、今回はどのような……」
「それが、いささか大変なことになってしまいまして」
先生の言うことはだいたいこんなことだった。
作家としての仕事も軌道に乗り、マンションから引っ越して中古住宅ではあるが一軒家を買うことにした。引っ越しの準備も整え、明日が引っ越しという日、となりの家のへ放火による火災が移り、なんと引っ越すはずだった木造の家が火事被害にあったというのだ。
「ええ?! お家が……?!」
「はい。幸い火災保険には加入していたんですが、やはり放火された家の近くには……」
「住みたくないんです」
奥さんがぽつりとこぼした。
まあ、その気持ちはわからないでもない。放火された家の近くにはどうあっても住みたくないだろう。危険だってある、繰り返さないとも限らない。新しい家に引っ越すとなればなおのことだ。
「なるほど……」
「それで、お願いしたいのが、家の売却の手伝いをしてもらいたいという事なんです」
「そう、ですか。保険に入っているとはいえ、火災にあっていますから……それほど高価には売れないかもしれません。ですが、なんとか頑張ってみます」
「……よろしくお願いいたします」
ずっと黙っていたお嬢さんがひとこと、声を出した。
心機一転と思っていたのは旦那さんだけではない。新しい生活に下調べをいそしんでいた奥さんも、環境が変わることにドキドキしていただろうお嬢さんも。3人が、3人とも、きっと引っ越しを心待ちにしていただろう。それだけに、この決断は苦渋だったに違いない。
私はその決意を、無駄にしてはいけないと思った。
それから何とか奮闘し、方々にあたって、普通より高い値で買ってくれるところへ、ようやっと売却が決まったのは半年ほど過ぎたころのことだった。
報告をしに、私がお宅へ伺うと、3人がそろって出迎えてくれた。
「長らく待たせてすみません」
私が頭を下げると、家族はみんなにっこりと笑っていた。
「こんなに頑張ってくださって、本当にありがとうございます」
「そんな」
あなたがたの奮闘に比べたら。と、言うのは喉の奥で飲み込んだ。
だって私は、彼らの新しいスタートの手伝いをしたに過ぎないのだから。
あれから2年。毎年この時期になると一通の手紙が届いている。
受け取った手紙を開くと、几帳面な字で、白い便せんに近況がつづられていた。一通り読んでから、また折りたたんで封筒に入れ、デスクの引き出しの中に、2通目の手紙をしまった。
「なんて書いてあるんだよ」
先輩の視線に私は笑顔で答えた。
「ひみつです」
手紙のその末尾は、こう締めくくられている。
『新しい所で、家族三人で楽しくやっています。あの時助けてくださったおかげです。本当にどうもありがとう』