第3話 アパート建築 (宅地建物取引士 奈々美の奮闘記)

院していた田中さんが退院してきた。タクシーから荷物を手にして降りてきている。チラシ配りをしていた若葉奈々美は、すぐに笑顔で声を掛けた。
「退院されたんですね。よかったですね」
「ああ、あんたか……留守中、勝手に住み着いているやつがいるって、警察に通報してくれたんだろう」
「はい、何度か灯りを見たものですから」
以前、放火が何件かあったが、田中さんの家に放火犯は勝手に住み着いていたのだ。せっかく退院してきたのに、散らかった部屋に帰るのはいやだろう。奈々美はつい親切心から声を掛けてしまう。
「なにかお手伝いしましょうか?」
いつもチラシ配りをしているから、田中さんは奈々美が『不動産ステーション』の社員だと知っている。見知らぬお姉ちゃんではないから安心したのか、素直に頷いて玄関に呼び寄せた。
「すまないね。おや、臭いな。なんだ、ひでぇ様だ。カップラーメン食い散らかしやがって、あーあ、ビールの空き缶が」
80歳を過ぎている田中さんには、退院してすぐにこの部屋の大掃除は無理だ。奈々美はゴミ袋の在処を訊くと、早速掃除を開始した。
「あんた不動産屋だろ?そんな親切にして、俺からなにか巻き上げる気かい?」
失礼な言葉にも、奈々美は笑顔を浮かべる。
「そうですね。もしお家を売りたいと思ったら、真っ先にわたしの顔を思い浮かべてもらえたらいいですね」
「図々しいねえちゃんだな」
田中さんは笑っている。奈々美が正直に答えたので、悪く思わなかったようだ。
病気で1か月近く入院していて、退院したのに家族の迎えもない。そんな田中さんの様子を見ると、奈々美の胸は痛む。
「ご家族はいらっしゃらないんですか?」
訊いてはいけないかなと思ったが、つい口にしてしまった。
「息子がいるが、カナダで商売していてな。向こうで結婚もしたし、こっちにゃもう寄りつきもしないよ」
「入院なさったこと、知らせたんですか?」
「いや、知らせるほどのことでもないだろ。あのままぽっくりいってりゃ、警察が知らせてくれただろうが」
「だめですよ、ちゃんと息子さんに連絡しなくちゃ。元気だと思ってるから、ほっといてるんでしょうね」
余計なお世話だろうが、奈々美は思っていることを素直に口にする。それが奈々美の長所でもあり、欠点でもあった。
1時間近く掃除をすると、部屋はかなりさっぱりした。そこで奈々美が帰ろうとすると、田中さんは恥ずかしそうに言ってくる。
「寿司でもとるよ。飯、食っていかないか?」
「いえ、お弁当、ありますから。自作です。今日のは大好きなオムライスなんで」
そこで忘れずに最新の自社チラシは置いていく。
『あなたの街の不動産ステーション、土地建物の売買、賃貸物件など、どんなことでも相談にのります。気軽にお電話ください』
「チラシ、捨てないでくださいね。なにかあったら、電話してください」
奈々美は田中さんの家を出ると、働いている『不動産ステーション』に向かって歩き出した。しばらくいくと、1人の男が手慣れた様子でチラシ配りをしているのが目に入った。
地味な印象の紺色スーツ、白ワイシャツにブルーのネクタイ。服装にどこといって特徴のない若い男だが、奈々美はすぐに同業者だと気付いた。
あんた、あたしの縄張りでなにしてんのよと言いたいところだが、さすがにそれは口に
できない。物陰に隠れてそっと様子をうかがうと、どうやら古い家ばかりチラシを入れている。チラシを入れるために、かなり家を吟味している様子だ。
「……アパート建築の勧誘かな」
大手のアパート専門業者となると、『不動産ステーション』がやっているようなシステムとは違う。うまいことを口にするだろうから、奈々美がいずれ売買に関われると期待している、大勢のお年寄りが狙われそうでいやだった。

「一軒、一軒、覗き込むようにして調べてました」
社に戻った奈々美は、社長の泉田啓一の前に奪ってきたチラシを置く。昼の出前でとったチャーハンと酢豚を食べていた泉田は、呆れたように言った。
「なんだ、外回りに出てて、営業取らずにライバル社のチラシ取ってきたのか?」
外回りに出ていたが、そのほとんどは田中さんちで掃除していたなど言えない。不動産屋は便利屋じゃねぇぞと、怒られるに決まっている。
「わたしが地道に信頼関係を築いている、お年寄りブロックが狙われて、ちょっとむかついたんです」
「そりゃあの辺りの高齢者住宅群は、不動産屋にとっちゃ狙い目だからな」
『不動産ステーション』ではまだまだ新人の奈々美が気付いたようなことを、他の同業者が気付かぬはずがない。とうに皆が営業をかけているのだろう。
「地方だとアパートも建てすぎで、問題になってるがな」
「そうなんですか?」
「ああ、借り手より貸家のほうが多くなっちまってるんだよ。なのに次々と同じような新築が建っている。どういうことかな?」
質問されたようだが、咄嗟に奈々美は答えられない。それより社長の出前の酢豚に、あろうことかパイナップルが入っていることのほうが気になった。
「サブリース!しっかり勉強しておけ」
「あ、は、はいっ」
自分のデスクに戻ると、ランチの準備をする。春雨スープにお湯を入れ、ランチボックスをバッグから取りだして開いた。
「酢豚にパイナップル……ありなの?」
ランチボックスには、きれいな黄色い衣に包まれたオムライスがきっちり収まっている。スプーンで、えいっと卵の衣を破きながらも、また呟いてしまった。
「酢豚にパイナップル」
奈々美の家では、酢豚にパイナップルは入れない。あれは常識なのかと、奈々美は斜め前のデスクにいる、経理担当の間中に思わず訊いていた。
「間中さん、酢豚作るときにパイナップル入れます?」
間中は不思議そうな顔をして、奈々美のことを見つめてくる。
『不動産ステーション』には、奈々美以外の女子社員といったらこの間中だけだ。もう50にはなるが独身で、母親と2人で暮らしているという。この会社に入る女子社員は、何年かすると結婚して退社してしまうのよ、あなたももうすぐねと、奈々美を見て笑いながら言っていた。
当分、退社しない自信はある。男性と友だちにはなりたいが、それ以上の関係は面倒臭い。好きだの愛しているだの言われたら、奈々美は無言で逃げ出すタイプだった。
「社長の出前……」
なんでおかしなことを言い出すのかと思われただろう。奈々美はちらっと社長のデスクを見て呟いた。
「ああ、万雷軒ね。あそこは古くからある店だから、昔ながらの作り方なのよ」
「へぇーっ」
「新しいお店は入れないとこあるわよね」
「そうなんですか?」
「中国の料理人が、外国人をもてなすのに変わった料理をということで、パイナップルを入れたそうよ。東南アジアなどでは、パイナップルの料理はよくあるものの一つね」
質問すると間中はすぐにすらすらと答えてくれる。ネットで検索するより早いくらいだ。かなり頭のいい女性なのだろうが、自分から知識をひけらかすようなことはしない。なにか訊ねられなければ、黙って仕事をしている。
思っていることをなんでも口にしなければいられない奈々美にとっては、寡黙な間中は尊敬できる先輩社員だ。
ついでにサブリースのことも訊いてしまおうかと思った。けれどここは自分で調べることにした。人から訊いただけでは、しっかり頭にたたき込まれない。これまで勉強してきたことでも忘れてしまうのだ。間中に教えてもらったら、後で社長に質問されてもまともに答えられないだろう。

サブリースとは

サブリースとは、大家さんが管理会社に部屋を賃貸し、管理会社が賃借した部屋を入居者に貸すシステムをいいます。この場合、実際の家賃の90%くらいが大家さんの収入になります。

よく知られているサブリースのイメージは、賃貸物件の一括借り上げをする。空室保証をする。30年間の家賃保証。大家さんにはトラブル対処の必要なしなどの、好条件ばかりに思えます。

しかし問題点がいろいろとあるのをご存じでしょうか。

30年間、同じ家賃を保証ということはありません。建物の老朽化、近隣地域の人口減少、新築物件が増えたなどの条件の違いにより、家賃は2年ごとに改正されていきます。

もしそれに大家さんが応じなければ、管理会社は一方的にサブリース契約を解除することが可能です。また大家さんからの解約希望の場合は、違約金が請求される可能性があります。

管理会社が倒産した場合、数ヶ月分の家賃が回収できないことになります。また借家人を大家さん自身が選ぶことはできないために、知らないうちに風俗店などに利用されてしまうこともありますから、注意が必要です。

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ランチがすむと、奈々美はパソコンでサブリースについての情報を見る。
「そういえば、こんなのあったな。だけどうちではやってない……」
ぶつぶつ呟いていたら、目の前にすっときれいな彩りのフルーツゼリーが差し出された。
「えっ?」
「どうぞ。甘いの食べたいでしょ」
間中からの差し入れだ。
「すいません、いいんですか?」
「いいのよ。こういうのって、一つだけ買うのってなんなく恥ずかしいじゃない。わたし、自分が食べたいときはみんなの分も買ってくるの」
たまにおいしいおやつが配られるが、あれは業者からの差し入れだけでなく、間中からのものが混ざっていたようだ。
「間中さん、うちはサブリースやってませんよね?どうしてなんですか」
ついにネットを飛ばして間中に訊いてしまった。すると間中は、ゼリーを手にデスクに戻りながら答えてくれた。
「そうね。この辺りは空室になる率が少ないから、サブリース契約をしてもいいんでしょうけど、社長は昔ながらのやり方のほうがいいみたいね。サブリースって、大家さんを騙しているみたいに感じてるんでしょう」
「この辺りは空室が少ない……そうですよね。人気物件なんて、ネットにだしたら3日以内に決まっちゃうのがほとんどですよね」
賃貸のアパートやマンションの入居者を募集するのは、奈々美の仕事になっている。ネットの情報サイトにだしたり、自社のホームページに掲載しているが、常に情報は切り替わっていた。
「ここは都心からそんなに遠くないのに、家賃相場が比較的安いから、賃貸では人気エリアなのよ。その割に賃貸物件は少ないでしょ」
「そういえば……」
「地方と違って、一軒の敷地が狭いからなのよ。アパート建てるより、土地だけ売ったほうがいいと思われるんでしょ。大家さんになる人が少ないの」
間中に言われて改めて気がつく。その昔、大手の不動産会社が企画して売り出した建て売り住宅が、今でも住宅地の大半を占めている。住民は高齢化しているが、まだ変わらずに住み続けていた。
住宅の広さにそんなに違いはない。大きなマンションを建てられるほどの敷地はないから、アパートやマンションは増えないのだ。
「空き地になっても駐車場にするくらいだったけど、これからはどうかしら?そろそろみなさん、相続の問題とかも出てくる頃でしょ。同業者が狙ってくるかもね」
間中は社長と奈々美の会話を聞いていたらしい。それとなく奈々美の興味のある方向に話を持っていってくれている。
「アパートも部屋数多くしなくたって、内装とかきれいにしたら家賃を高くとれるでしょ。住宅1軒分で、4部屋くらいのアパートなら作れるわ」
「……それか……」
せっせとチラシを配っていた男の様子が思い出された。あの辺りの住宅としては広い敷地の家を探していたようだが、そうでなくても十分建てられるようだ。
「でも部屋数が少ないと、サブリースしても儲からないんじゃないですか?」
「最初から建築する建物の値段を高くしておくの。安い建築資材使ったりして、費用を浮かせるのよ」
「そんなことしたら30年なんて持ちませんよ」
「持たなくていいのよ。建てるだけ建てて、何年かしたら一方的に解約してしまうっていうのが、よくあるのよ」
それは悪徳業者だ。奈々美はおいしいブルーベリーのゼリーを、思わず大量に飲み込んでしまった。
「サブリースは大資本の優良企業もやっているから、どこの会社も同じようだと思われてるんでしょうね。だけど保証内容とか、いい加減なところもあるのよ」
あの男の後をつけて、チラシを全部回収してくるべきだっただろうか。奈々美は少ししわのよったチラシをデスクに広げ、じっと目をとおす。
『アパート経営なら、私たちニューハウスにお任せください。30年、家賃を保証。借り手とのトラブルには当社が対応。あなたはただ私たちの会社に、賃貸物件を預けてくれればいいだけです。
「あやしい……」
不動産のチラシとしてはよくできている。文章のデザインも読みやすく、使われている写真もきれいで魅力的な室内のものだった。
けれど奈々美は気に入らない。なぜかというとチラシの隅にあの若い男が、モデル並みの決め顔で映っていたからだ。
「担当、立浪津与志……立つ波が強しなの?波風、自分で立ててるタイプだな」
見れば見るほど気に入らない。奈々美は思わず、立浪の目に、黒マジックで線を引いていた。

チラシという昔ながらの広告形態は、今でも十分に効果がある。特に高齢者にとっては、新聞の折り込みチラシや、自宅ポストに入っているチラシは、一応目を通したくなるものの一つであるらしい。
まだ自分なりの顧客を持っていない奈々美は、チラシを作り積極的に高齢者の住む地域で配っている。奈々美が勝手にお年寄りブロックと名付けた一画には、特に頻繁に通っていて、住民の高齢者とはおしゃべりできる間柄になっていた。
「おい、若葉。おまえ、行ってくれ」
イケメン男に縄張り荒らしをされてから2日、奈々美は対抗してサブリースではないアパート経営のチラシを制作していたが、そんなときに社長に呼ばれた。
「はい、なんでしょう?」
「駐車場8号物件のオーナー、解約希望だそうだ。理由、訊いてきてくれ」
「8号物件ですか?」
「ああ、いよいよ土地を売るのかと思ったが、どうもそうじゃないらしい」
そこで社長は、じっと奈々美を見つめてくる。奈々美はすぐに思っていたことを口走っていた。
「あれですか?イケメン男のチラシ?」
「そうみたいだな。あんな名前も聞いたことのない業者に、サブリース経営なんてできるのか?若葉の勘は大当たりだったな」
社長はおもしろくなさそうだ。その気持ちはよくわかる。社長がこれまで丁寧な対応をしてきた8号物件のオーナーが、『不動産ステーション』ではなくて、いきなり訪れた業者にアパート経営をゆだねようとしているのだ。
「すぐに行ってきます。あっ、そうだ。菓子折、要りますか?」
「んっ……そうだな」
「いつもと違うとこにしてもいいですか?」
「勝手にしろ」
おかきか焼き菓子、それが持参菓子折の定番になっているが、たまには違うものも試してみたい。特に気になっているのは、先日、間中がごちそうしてくれたフルーツゼリーだった。

8号物件はある意味、駐車場のサブリース契約だ。オーナーの松本夫人は一昨年ご主人が亡くなったとき、広い庭はもう不要だと思ったのだろう。自宅の庭の一部を駐車場にしたいと言ってきたのだ。
ただし自分で経営するのは面倒だ。初期費用は払うし、手数料を取られてもいいからやってくれと、『不動産ステーション』に丸投げした。
社長は駐車場として整備した後、売上げの5%という手数料で8号物件を管理してきた。ときには自ら出向いて、掃除までしている。それはいずれ売るつもりになったら、自分のところを利用してくれるだろうという思いがあったからだ。
コインパーキングとしての、8号物件の稼働率は優秀だ。この辺りは商業地域ではないので、無料で使えるような駐車場が少ない。そのため日中はほぼ満車の状態だった。
「ここがなくなると困るんだけど」
松本夫人の家に向かっていた奈々美は、立ち止まり建築中の建物を見上げる。そこは奈々美が初めて担当した売買物件で、現在、眼科のクリニックが建設中だった。
入り口の前に1本だけ、以前の住宅から引き継いだ木が残っている。薄紅色の花がきれいなハナミズキだ。3階建ての建物の、2階から上が自宅になるようだが、リビングからハナミズキが眺められるようになっている。
「駐車場、近所にありますって、宣伝してたのにな」
眼科クリニックに駐車スペースはない。近隣の駐車場を利用してくださいと説明したのに、それがなくなるのは困るのだ。
なんとか考え直してはくれないだろうか。駐車場のままにしておいたって、松本夫人にはいい収入になるはずだ。そこをきちんと説明して説得したい。
「松本さんは、あんまり得意じゃないからなぁ」
高齢者には好感度の高い奈々美だが、60代半ばの松本夫人のようなタイプは苦手だ。ブランドものをさりげなく着ていて、いつでもきっちり化粧をしている。彼女の基準では、あまり自分の外見を構わない奈々美のような女性は、珍獣扱いらしい。遠慮なくじろじろと奈々美を見た後、必ず小声でこう呟く。
『若いからって、油断してたらだめなのよ』
別に油断していて、このような色黒ナチュラルメイクなのではない。休日は山歩き、高い化粧品は使いませんの人だからなのだ。
松本家に着くと、なにか察したのか室内で犬がぎゃんぎゃんと吠えだした。松本夫人が飼っているトイプードルだ。いつも服を着ていて、ときにはキラキラ光るアクセサリーを付けている。外見は可愛いが、きちんと躾けられている犬とはとても思えない。
「こんにちわ。『不動産ステーション』の若葉です」
インターフォンを押し、カメラに向かって笑顔を作る。
もう何度もこの家には来ている。駐車場の毎月の収支報告書を、郵送ではなく必ず届けるようにというのが、松本夫人の指示だからだ。鳴き続けるトイプードルを小脇に抱え、松本夫人がドアを開けてくれた。
「あら、あなたなの?社長がくると思ってたわ」
「すみません。現場でトラブルが発生しまして」
そう答えろと命じられていたから、そのとおりに言ってみた。
「いつもお世話になっておりますのに、伺えず申し訳ないと言ってました。これは……社長から」
ゼリーの箱が入った袋を差し出すと、中身も見ていないのに松本夫人はふんっと鼻を鳴らして笑う。
「あら、今日はずいぶんと気が利くこと。いつも同じものなのに。やっぱり若い人をお使いに行かせるべきね」
笑顔が引きつってきた。ものを貰ったり、親切にされたときに、素直にありがとうと言えない人間は嫌いだ。まずはありがとうだろうと、奈々美は言いたい。
「駐車場の精算機、来月までに片付けておいてくれる」
ゼリーを貰ったら、もう用はないとでも言うのだろうか。松本夫人はさっさと本題に入ってきた。
「あの、なにか建てられるのでしょうか」
「そうよ。賃貸住宅を建てるの。社長にはすまないけど、おたくの会社じゃ30年も家賃を保証してくれないでしょ?」
「サブリース方式ですね。30年保証といっても、年々家賃が下がっていくこともありますので」
「そんなこと知ってるわよ」
チラシを見て松本夫人は立浪に電話したのだろう。そこで説明を聞いて、すっかりわかったつもりになっているようだ。
「30年の保証はできませんが、うちでしたら空室を作るようなことはしません。いただく手数料も5%ですし、トラブル処理もただちに行えます」
「ああ、いいの、いいの。お宅の会社じゃ、30年後あるかどうかわからないじゃない。もっとちゃんとしたところに頼みたいから」
そういうあんたは、30年後も確実に生きているつもりなのかと言いたい。けれど言ってはだめだ。怒ってはいけない。なにを言われても、笑顔で相手の話を聞かなければいけない。それが営業職というものなのだ。
「どちらのメーカーさんでお建てになるんですか?大手メーカーさんだと、わたしたちも敵わない部分があるので、参考までに教えていただけませんでしょうか?」
テレビやネットでガンガンCMをだしているような大手なら、奈々美もここは引き下がる。大手となれば建物を作る住宅メーカーから、資金を融資する銀行まで、すべて同じグループでやれてしまう力があるからだ。
「埼玉じゃ有名な会社よ」
さすがに松本夫人も社名は言わない。大手ではないニューホームだからだ。ブランドものが好きそうな松本夫人だ。もし大手メーカーと交渉しているなら、堂々と口にするだろう。
さらに質問しようとしたら、犬がまた激しく吠えだした。振り返るとそこには、チラシにあったイケメンです風の立浪の姿があった。
「あーらっ、立浪さーん、いらっしゃーい」
松本夫人の声がいきなり裏返った。そして犬の手を持って、歓迎するように振っている。
立浪は完璧な作り笑顔を浮かべてやってくる。
「松本さん。お友だちを呼んでくださるというので、すぐに飛んできちゃいましたよ。こちらがお友だちですか?」
奈々美にまで作り物笑顔を向けてきた。歯並びが完璧だ。ここまで治すのにいくら使ったんだろうと、つい余計なことを奈々美は考えてしまう。
「いいえ、駐車場の解約のことで来た地元の不動産屋なのよ」
松本夫人は、さっさと奈々美を追い返したいようだ。これから友人を呼んで、立浪とともにサブリースでのアパート経営話をしたいのだろう。
玄関前で奈々美と立浪は並び立つ。その体からは、微かにコロンの甘い香りがした。
『不動産ステーション』の男性社員は、それなりに清潔感に気を遣っているが、こんな甘ったるいコロンを付けているものは1人もいない。そんな社員がいたら、奈々美は即座に臭いですと言ってしまうだろう。
「そうでしたか。精算機の撤去、なんでしたら、僕のところでやっても構いませんよ」
「いえ、当社で請け負いますので」
僕はないだろう、僕は。ここは私か、当社と言うべきだ。文句が次々わいてきて、奈々美はもう笑顔を作ることができなくなっていた。
「それでは社に戻りまして、社長に松本様の意向を伝えておきます。撤去の日程など決まりましたら、後ほど、ご報告いたしますので」
負けた気がして、すごすごと帰るのがいやだ。けれど奈々美には、松本夫人の意志を阻止するなんの権利もない。松本夫人がサブリース契約の落とし穴に気がついて、後悔するまで見守ることができれば、少しは溜飲も下がるのだろうか。
奈々美が離れた途端に、松本夫人は立浪を自宅に招き入れている。
「うっわぁー、なんか、気持ち悪い」
ぞわぞわっと鳥肌が立った。そして気がついた。立浪がどうして生理的にだめなのか、理由はあのホストっぽさにあるのだと。

「わたしまけましたわ」
隣のデスクの麻生が、それを聞いていきなり切り返す。
「まさかさかさま?」
「えっ?」
「あ、いや、つい、釣られちまった。回文、作ってんじゃないの?」
社に戻ったものの、愚痴をぶつける相手がいない。社長はいないし、事情を知らない他の社員に訴えることもできず、奈々美はパソコンの画面を、ぼんやり見つめているばかりだった。頭が空っぽになったようで、突然浮かんだ言葉を口にしたら、麻生に聞かれていたらしい。
「麻生さん、わたし、負けたんですよ、こいつに」
パソコンにはニューハウスのホームページが出ている。そこには立浪の姿が、大きく映し出されていた。
「へぇーっ、若葉って、こういうタイプに弱いんだ。まぁ、そこそこイケメンだけどな」
「勘違いしないでください。わたしの男性の趣味は、こういうのじゃありません。山中で一緒に遭難しても、なーんにも心配しなくていいタイプが好みですから」
「クマ男とかゴリラ男が好きなのか?」
「そんなとこです」
残念なことに、奈々美が好きになるようなタイプの男性は、奈々美のようなタイプの女性を好きになってくれない。大人しくて、可愛くて、守ってやらないとだめですといったオーラ全開の女性が好きなのだ。
「わたしが開拓中のお年寄りブロック、1軒、奪われました」
画面上の立浪の顔をつんつんボールペンで突きながら、奈々美は憎々しげに言う。
「サブリースの業者かよ。地方じゃもうアパートが飽和状態だから、都内に進出してきたのか?」
「そうみたいです。しかもお友だちキャンペーンまで展開するつもりみたいで、不安なんですけど」
聞く耳というのは、聞きたい話にだけ向けられるようにできている。今の松本夫人にとって、聞きたい話は立浪が語ることだけだ。
「はっきり言って、松本さんはいいんです。サブリースで失敗しようがどうしようが、好きにすればぁって思うんですけど、他のなにも知らない人たちが、次々騙されていくんじゃないかって、心配になってきました」
「だけどさ、若葉はこの会社を詐欺だって決めつけてるけど、優良企業かもしれないだろ」
「うそーっ、どう見たって、あやしいじゃないですか。わたしは5年から10年後ぐらいには一方的に解約するんじゃないかって、疑ってるんですけど」
新築で空室もなく、家賃収入もいい初期段階はいい顔をしているだろう。けれど空室が出たり、建物が老朽化する頃には、さっさとサブリース契約を解約して、責任逃れをするに決まっている。
「なにを根拠にそんなに疑ってんだよ。証拠もないのにおかしなこと言ってると、こっちが逆襲されるぞ」
「証拠は……」
会社の設立年数が新しい。親会社は千葉にあって、そこから立浪は独立したということになっている。実際は実績がほとんどない会社なのだ。
豊富な資金力と書いてはあるが、金庫の中の現金や通帳を見せているわけではない。本当にそれだけの資金力があるのかは、会社概要からだけではわからない。
それだけで疑うというのもおかしな話に思えるだろう。けれど奈々美にとって立浪は、見れば見るほど怪しい男に思えてくる。
「どんな営業してるんでしょうね?第一号契約者になりそうな松本さんなんて、この男がきたら声が裏返っちゃって、大歓迎なんですよ」
「営業トークがうまいんだろ。見た目もおばさま好みだしな」
「……」
そこで奈々美はじっと麻生を見つめる。奈々美より3年先輩、社にいるときはいつもだるそうにしていて愛想もないが、客を前にすると突然人格が変わるのだ。笑顔のマシンガントークで、客をその気にさせるテクニックを持っているのはすごい。
「なんだよ……」
奈々美に見つめられて、麻生はうろたえる。いつもはしないことをされたせいだ。
「鼻毛でも出てるのか?」
「わたしじゃ相手にされないんです。麻生さん、自慢のトーク力で、松本さんを説得してくれませんか?」
「はぁ?」
「男性営業マンに優しくされて、ホストクラブ気分を味わいたいんじゃないかって、思えてきてしまったんですよね」
社長がこなかったと、松本夫人は最初から不機嫌だった。奈々美のような、若いだけしか取り柄のないような女子は無視なのだ。客という上位の立場なのだから、相手会社の男性社員をひざまずかせたいのに違いない。
そんなことまで考えてしまって、奈々美は大きくため息を吐く。
「すいません。なんか、自分らしくない方向に、思考が流れてるみたいです」
「こいつの営業トークがどれほどのものか、わからないとな。トーク対決しろって言われてもなぁ」
「そうですよね。見た目はともかく、トークなら麻生さんが勝てそうと思ったけど……」
「見た目って、こらっ!」
そこで奈々美はスコーンッと頭を叩かれた。
「いたたたっ!」
「見た目に不自由してて悪かったな」
「正直者ですいません」
そこで奈々美は気付いた。立浪の雰囲気がいやなのは、自分の魅力でお客も簡単に騙せると思っているような、傲慢さを感じていたからだ。

翌日新しいチラシを手にして、お年寄りブロックを回った。田中さんの家に来ると、奈々美はインターフォンを押していた。
「こんにちわ。『不動産ステーション』の若葉です。なにか困ったことありませんか?」
迷惑かもしれないが、声かけぐらいはしておきたい。地域に貢献する企業の社員としては、当然のことだろう。
「ああ、あんたか」
田中さんは玄関に出てくると、奈々美を見て笑顔になった。
「お茶でも飲んでいくかい?」
「いえ、今外回り中なので、お買い物とかあればしてきますよ」
早速新しいチラシを渡す。すると田中さんは、うんうんと頷いた。
「なんかうまい話があるって、詩吟の会の婆さんたちに誘われたが、これとは違うんだろ?」
「違いますよ。うまい話が危ない話なので、急いでこれを作ったんです」
チラシにはサブリース契約の危険性について、わかりやすく書いたつもりだ。けれどどれだけの人が、真剣にこの内容を読み取ってくれるだろうか。
「詩吟の会の人たちって、危ない話にどうやって誘われたんですか?」
「この先の松本さんちで、毎日、説明会みたいなのをやってるらしいよ」
「やられた……」
毎日の説明会、敵はじわじわと侵攻しつつあるらしい。
「うまい話に思えますけど、サブリースシステムではオーナー様がずっと儲け続けることは難しいんです。遺産として残したいと思われても、負の遺産になりかねません。みんなに知って欲しいけど、どうもあちらのほうが営業トークがお上手みたいで」
営業トークの内容がわかれば、その中の怪しい点を重点的に突っ込める。けれどわからないから、ただこうして外側から小さく抵抗するだけだ。
田中さんはしばらく頷いていたが、突然、明瞭な声で切り出した。
「じゃあ、こうしよう。家にその営業の人に来てもらって、私が話を聞くから、あんたは隣の部屋で盗み聞きしてるといい」
「えっ?」
「盗み聞きは聞こえが悪いな。あんたはいつものように、親切心から掃除に来てくれたが、終わらないうちに客がきた。隣の部屋で掃除していたら、たまたま声が聞こえてきたんだよ。それなら別に、悪いことしたわけでもないだろ」
「そんな……いいんですか?」
「ああ、知り合いが騙されるのは見たくないからね」
ありがたい申し出だ。立浪が契約前に、どれだけきれい事の嘘を並べているか知れば反撃に出られる。
「食パンと卵、買ってきてくれるとありがたいな」
田中さんはポケットに入っていた小銭入れの中から、500円玉を2枚取りだして奈々美に手渡す。
「トマトジュースも2缶たのむ」
「はい、買ってきます」
奈々美は飛び上がりたいほど嬉しかった。他社の営業トーク、それを聞く機会なんてそうあるものではない。しかも騙しの営業トークなのだ。

サブリース運営をしようとする業者は、賃貸住宅管理業者登録制度に登録しなければいけない。登録した業者は、オーナーに対して必要事項の説明義務を果たさなければいけなかった。
この登録制度は、平成28年度から施行され、国土交通省の管理となっている。都道府県ではなくて、国が管理に乗り出してきたところに、サブリースには危険な部分があることを物語ってはいないだろうか。
奈々美は田中さんの家の仏間で、じっと息を潜めている。亡くなった奥さんの遺影がこっちを見ているような気がしたので、奈々美は笑顔で手を振った。
「安心してください。怪しい者ではありませんから。一応、女性ですけど、そういう関係じゃありません。奥様みたいな、優しい女性らしいタイプじゃないですし」
視線が外されたような気がした。続いて笑われたような気もした。
「やぁね。後でお線香、あげていこう」
奈々美は故郷にある、祖父母の家を思い出す。大きな農家で、仏間もびっくりするほど広かった。そこはいつもお線香の匂いがしていて、お供え物が山ほど飾られていた。
「お供え物のお下がり、楽しみだったなぁ。いつお下がりになるのか、従兄弟とよく騒いでたっけ」
優しい祖父母が大好きだった。だから今でも奈々美は、高齢者と仲良くしたくなってしまうのかもしれない。
「どうも、わざわざお電話いただきまして、申し訳ありません」
爽やかすぎる声がした。男性相手でも、立浪の爽やか度数は下がらないらしい。
「病み上がりでね。すまないが、耳も遠いもんで、大きな声で話してくれませんか」
ナイス、田中さんだ。隣室にいる奈々美への、最大の気配りだろう。
「1人で住むには、そろそろ広すぎると思ってきてね。下の一部だけ住まいにして、後は人に貸そうかと思ってるんだよ」
田中さんの言葉に、立浪はすぐに食いついた。
「そうですね。これだけの敷地、お一人で住むにはもったいないですよね。当社に任せていただければ、空室になっても家賃は保証いたします」
「30年保証かね。そんなに生きてはいないけどな」
そこで笑いが起こっている。
「相続なさるお子さん、お孫さんはこの特典を受けられますよ」
すでに田中さんについては、リサーチが進んでいるのだろう。そこから淀みない立浪の営業トークが始まった。
田中さんは持病があるので、自己資金をあまり使いたくないだろう。けれど現金は必要ない。家賃収入でローンが利用できるからだ。ローンとなった場合、一人息子はカナダで成功しているから、保証人としての資格は十分ある。
建物と土地を担保にし、息子さんを保証人にすれば、田中さんには一切負担がかからない。万が一、田中さんが亡くなったら、管理は立浪の会社で引き受け、息子さんに利益を送金するとすらすら出てくる。
けれど肝心の家賃30年保証ではないこと。敷金、礼金は立浪の会社のものになる。建物の修繕費は田中さんが払う。解約は田中さんからの申し出だと、最低でも違約金として家賃総額の6か月分になるが、立浪からの申し出は即座に解約できるようになっている。
それらのオーナーにとってはあまり喜ばしくない話題は、会話の中に一言もでてこない。
何度もでてくるのは、あなたはなにもしなくていいですの言葉だ。お金だけ受け取ればいいと、何度も執拗に繰り返す。
(うまいな。これじゃあ、ちょっとでも欲のある人なら、簡単に引っかかるよね)
立浪にとって田中さんはいい客だろう。サブリース運営がうまくいかなくなっても、文句を言ってくるような身内がいない。カナダにいる息子さんには、日本の不動産事情などよくわからないからだ。
「建てるのから貸すのまで、あんたの会社でみんなやってくれるんだ?」
「はい、当社と提携しております建設業者が、50年保証の耐震住宅を建築いたします。お孫さん、いやひ孫さんの代まで持ちこたえる、素晴らしいアパートですよ」
古い建物が多いヨーロッパなどとは事情が違う。日本で築50年の物件が、どれだけの家賃が取れるというのだ。話を聞いている高齢者だって、自分があと50年も生きるとは思っていない。家族に相続させたいと思っているだけだ。
「現金として遺産を相続させるより、アパートにしたほうがずっと相続税がお得になるんですよ。まぁ、田中さんの息子さんなら、相続税程度では困らないでしょうが、中には相続したものの税が払えず、結局損をして手放す人もいるんですよ」
それは事実だった。これからの不動産業界は、相続税問題がらみで忙しくなる。売り手があふれ、怪しい投資目的の連中が暗躍し、この辺りの土地も転売、さらに転売と持ち主がわからなくなるのかもしれない。
「息子さんが相続した後、こちらを不要だと思われたら、転売の手続きもやらせていただきます。アパートは安定した収入が得られるので、いい投資物件になりますからね」
立浪はさらりと、田中さんが亡くなったあと、ここを転売する話までしている。サブリースでの家賃保証に釣られて、中古のアパートを投資目的で買う人もいるのだ。
(悔しいけど、これじゃうまく突っ込めない。契約書を手にするまで、不利な点に気づけないまま進んじゃう)
わざと罠を仕掛けてくれた田中さんまで、このままじゃ契約してしまいそうだと奈々美は不安になる。
「私は、どうせもうそんなに長くないからね。家賃を30年、80%貰うより、毎月95%貰えるほうがいいな」
奈々美ははっと顔を上げた。それは奈々美が書いたチラシの文面で、当社は毎月の手数料は5%のみで、誠心誠意、皆様の物件を管理をさせていただきますとあった。
「それでしたら通常のアパート経営方式もございますよ」
「いや、普通のアパート経営なら、なにもあんたのとこみたいな埼玉の業者に頼まなくたって、地元の業者があるからね」
ナイス、田中さんだった。
近隣の人たちが、皆、同じような気持ちになってくれるといい。地元を知り、地元に尽くしてきた企業がいくらでもある。
「地元の零細業者では、空室ばかりになっても、保証はありませんよ。よくお考えになったほうがいいと思います。パンフレットをよくご覧になって、検討してみてください」
立浪のあきらめは早かった。少しでも疑念を抱いたら、相手にしない方針らしい。
しばらくすると隣室との境目の襖が開いた。田中さんは奈々美を見て微笑む。
「ありゃあ、だめだ。最後までいいことしか言わなかった。婆さん連中、色男にすっかり騙されてるなぁ」
「ありがとうございます。本当に……いつ、家賃の減額の説明とかするのかと思ってたのに、一言もありませんでしたよね。あれって、違反です」
契約となった段階で、初めて小さく書かれたそれらの説明文を読み上げるのだ。それでもサインする前なら、説明したことになるというのが用意された言い訳だろう。
「若葉さんだったな」
「はい……」
「よし、決めた。あんたのとこで、ここにきれいなアパートを建ててくれ。一室に私が住むから、手抜きは許さないよ」
「えっ……そんな、いいんですか」
空からフルーツゼリーが降ってきそうだ。頭からおいしいフルーツゼリーのシャワーを浴びている気分だった。
「私が死んだら、家賃はカナダにいる孫娘に送ってやってくれ。あんたと同じ歳くらいの、がんばり屋のいい子なんだ」
田中さんの親切の意味がこれでわかった。奈々美が祖父母と高齢者の皆さんを重ねていたように、田中さんもまた奈々美に自分の孫の姿を重ねていたのだ。
「いい見本を作るんだよ。老い先短い身に、30年分の家賃はいらない。借金を子供にまで背負わせたりしないように、うまくやってくれ」
「はいっ、がんばりますっ!」
立浪は松本夫人のところで、サブリースのアパートを建てればいい。奈々美はここで、誠心誠意を尽くしたアパートを建ててみせる。今は立浪のほうが有利に思えるかもしれないが、10年過ぎたらどちらに不動産の女神は微笑んでいるだろうか。
「若い女の子が借りてくれるといいなぁ」
田中さんが笑ったら、仏壇から冷たい風が吹いてきたような気がしたので、奈々美は急いでお線香を手にする。
「ご心配なく……わたしがしっかり管理しますから」
お線香に火を点け、奈々美は手を合わせる。また笑われたような気がした。

田中さんの家から社に戻る途中、奈々美はシュークリームをいくつも買った。自分へのご褒美と、いつも助けてくれている同僚への感謝の気持ちだった。
「社長……契約、取りました」
シュークリームとコーヒーを手にして、社長の前に進み出る。すると社長は眉を寄せて怪訝そうな顔をした。
「契約?なんの?」
「アパートです。建築から管理まで、すべて我が社に一任してくださるそうです」
「アパートって、松本さんじゃないだろ?」
「違いますよ。お年寄りブロックの1軒ですけど」
にこにこしながら奈々美はシュークリームを勧める。社長は大きく口を開き、シュークリームを一つ一気に飲みこんだ。
「えっ……はやっ」
「んっ、んまいな」
「だったらもっと丁寧に、味わって食べてくださいよ。まったくぅ、シュークリーム丸呑みなんて、もったいない」
給湯スペースに置かれたシュークリームの箱から、同僚がそれぞれ手に取って食べている。さすがに一飲みするのは社長くらいのものだ。
「田中さんの条件は、松本さんより早く物件を仕上げてくれることだそうです。いい見本になりたいっておっしゃってました」
「いい客だな。そうそう、あの立浪のこと調べたら、あいつの親父が千葉でさんざん荒稼ぎしてたみたいだ」
「ええっ?」
「訴訟も起こされてる。それで千葉じゃ稼げなくなって、息子に東京を狙わせているんだろう」
「千葉の情報じゃ、ここまで届きませんものね」
人口が少ない農村地でも、アパートは次々と建っている。それは農家がサブリースの業者の口車に乗せられて建てた結果だ。近隣に大きな工場でもあれば、家賃を安く設定すれば借り手はいるだろう。けれどなにもない農地の真ん中に、ぽつんとアパートが建っていても借り手は少ない。
サブリース業者はどんどん家賃を値下げしていき、それではローンが払えないと抗議すると、さっさと解約して去ってしまう。残ったのはアパートの管理能力もない大家と、空室だらけのアパートだけだ。
「立浪のホスト営業に舞い上がってる、奥さん連中は話を聞いてくれないだろう。ここは冷静な旦那連中に、立浪の親父の悪行を広めてもらおうと思ってたんだがな」
「社長も考えてくれていたんですね」
奈々美一人が、悶々としながら戦っていたのかと思った。やはり社長も、裏ではしっかり対抗策を練ってくれていたのだ。
「チラシでサブリースの問題点を伝えたのはいいやり方だ。別に家賃保証なんてなくても、借り手に不自由することはないって、ガンガン攻めていこう」
チラシのことでほめられたのは初めてだ。シュークリームが大量に空から落下してくる気分になってくる。
「今度は千葉の悪徳業者の訴訟実例ってチラシを作れ。いいな」
「は、はいっ」
やはり社長は松本夫人の仕打ちに腹を立てていたのだろう。それで復讐の機会を狙っていたのだ。
「サブリース説明会なんて、勝手にやりやがって。ここは誰の地元だっての」
社長の鼻息が荒い。奈々美は急いでデスクに戻り、千葉のサブリース訴訟について調べ始めた。

奈々美は近くならたいがい歩いていってしまう。バスやタクシーを使うことはほとんどない。ただしお客を連れているときは、社の軽自動車を運転して目的地まで連れて行く。
歩くのは好きだ。デスクワークが多くて、1日歩かないと調子が悪くなる。だからチラシ配りは奈々美にとって、毎日でもやりたいことの一つだった。
田中さんの家が近くなると、奈々美の眦は下がる。今回、奈々美が提案したのは猫の飼えるアパートだ。猫を飼いたい人はいるが、猫がいると借りられる部屋が限られてしまう。猫が飼えますと大きく宣伝すれば、すぐに借り手が見つかるという自信があった。
「わたしも猫飼いたいなぁ」
住宅の窓から、路上を見ている猫と目が合って、奈々美は思わず呟く。すると背後からいきなり声がした。
「飼えばいいじゃないですか」
「……」
立浪の作り物笑顔がそこにあった。けれどその笑顔に、今日は強烈なホストオーラがない。
「どうも……」
「営業妨害ですよね。そのチラシ」
立浪は奈々美が持っているバッグを示す。そこにはまだ配られていないチラシが、大量に入っていた。
「あそこの駐車場なんて、ほとんど儲けがなかったでしょう?なのにこんな攻撃してくるんですか?可愛い顔して、やること汚いなぁ」
全身にぶわっと鳥肌が立った。奈々美にとってもっとも苦手な言葉、それは可愛いと言われることだったからだ。
可愛いなんて言われることはほとんどない。しっかりしている。逞しい。クールだねなどとほめられると、それなりに嬉しくなるが、可愛いは禁句だ。嘘吐くなと言い返したくなってくる。
「賃貸住宅管理業者登録制度に加入されてませんよね」
奈々美は一歩下がると、立浪を睨み付けながら言った。
「ああ、あれは会社ができたばかりだから、まだ未登録ってだけですよ」
「それで説明義務を逃げてるんですか?登録業者だったら、2年ごとの契約更改の話を、必ずしなければいけないってご存じですよね」
「……ん?」
立浪の表情が変わった。どうやら奈々美のことを、出来の悪い営業程度に思っていたらしい。まさかここでそんなことを言われるとは、思っていなかったようだ。
「お父様は千葉で成功されたかもしれないけど、この街では同じようなことをして欲しくありません」
「親父と僕は別ですよ。親父がした失敗を、僕は繰り返さないようにしてるんです」
「でもやってることは同じにしか思えませんけど」
作り物笑顔はどんどん崩壊していく。変わって立浪は、不思議な笑顔になっていた。
「いいなぁ、一生懸命さが。あなた、あそこでいくらお給料貰ってる?僕のとこに来てくれたら、もっとだすよ」
「はぁ?」
いきなり方向転換、奈々美をスカウトすることにしたらしい。
「猫も飼える住居をお世話するし」
「あの、ご自分がどれだけ失礼なことを言ってるか、わかってます?」
「ああ、わかってるよ。ライバルって勝手に思ってる地元業者の営業社員を、引き抜こうとしてるんだってね」
「じゃあ、無理だってことも、わかってらっしゃいますよね?」
「そう?無理なの?じゃあ、こうしよう。どっかで食事でもしながら、ゆっくり話さない?」
殴ってもいいですかぁ、バカヤローでございます、そう言いたいのをぐっと堪えて、奈々美は冷たく言い放った。
「わたしと話したかったら、チョモランマの頂上にでも席を用意してください。失礼します」
奈々美は立浪を無視して歩き出す。その肩は怒りのあまり上がっていた。
「もったいないなぁ。僕のとこに来れば、もっと稼げるよ」
稼ぎたいだけで、この仕事をしているのじゃない。奈々美にとって大切なのは、住んでいる住民を少しでも幸せにしてあげることなのだ。

詩吟の会、早朝ゲートボールクラブ、卓球を楽しむ会、歴史研究の散策会、囲碁クラブ、将棋クラブ、この街では高齢者のクラブ活動が盛んだ。都心の一流企業や官公庁に勤めていた退職者も多いから、年金の受給額も多く彼ら高齢者はリッチなのだ。そのため豊かな老後を楽しんでいる。
そのコミュニティ内で、この頃意見交換が盛んになっていた。話題になっているのはサブリース。30年以上生きる予定のある高齢者以外、手を出すべきじゃないというのが一方の意見で、反対するのは30年の保証制度が素晴らしいと思っている人たちだ。
意見交換をするうちに、どうやら皆の考えはまとまったらしい。
子供を保証人にしてローンを組むならやめる。負の遺産になってしまう可能性があるからだ。
もしサブリースを利用するなら、大手の耐震保証住宅で、耐用年数の高いものにする。保証制度に書かれている内容をよく確認し、説明してくれる業者を選ぶ。
普通のアパート経営、駐車場経営でも、この一帯なら確実に収益が見込める。
不動産の資産をどう利用するかは、子供世代とよく話し合って決める。勧誘に惑わされない。
こんな考えが、皆の間に広まっていくうちに、松本夫人の家でのサブリース説明会はなくなっていた。
立浪の姿も見なくなった。どうやらターゲットを、別の地域に移したらしい。そこに『不動産ステーション』のような、地域住民のためを思う業者はいるだろうか。いなければ立浪は、いいように高齢者を騙していくのだろう。
そうしているうちに松本夫人から電話があって、駐車場はそのまま続けてくれと言ってきた。あんなにべたべたしていたのに、松本夫人は立浪のすすめるサブリースでのアパート経営は断念したらしい。
電話に出た社長によると、どうやら娘さんにものすごく怒られたらしい。駐車場の売り上げで、松本夫人には十分なお小遣いがあるはずだ。なのにわざわざ子供にローンの借金を残すのかと責められたそうだ。
『猫の飼えるお部屋が登場』奈々美はパソコンでチラシの下書きをしながら、少し気が早いかなと照れ笑いする。
「んっ、メールだ」
業務用メールが入っている。急いで開くと、そこに恐ろしいものが映っていた。
立浪が都内にある『チョモランマ酒場』という中華料理店の前で、椅子を手にして立っていた。
『チョモランマの頂上に席のご用意ができました。いつ登頂されますか?』とメッセージが書いてある
「殴っていいですかぁ。バカヤローでございます」
即座にメールを消除する。息が荒くなっている奈々美を見て、間中が心配そうに声をかけてきた。
「迷惑メール?悪質なの多いわよね。女性だとわかると、おかしなもの送ってくる変態いるから、気を付けないとね」
「ちょっと知ってるバカヤローからのメールでした」
「お使い、頼もうかな。田中さんのアパートの見積もり報告書。届けてきて」
「はいはい、いきます。いきます」
外歩きのいい口実ができた。ついでに仮住まいに引っ越す田中さんの、荷造りの手伝いでもしてこようかなと思った。
歩きながらも笑顔になる。もう三軒、物件の売買にかかわれた。まだ新人だけれど、実績が現実に建物となって目に入るのは嬉しい。そのうち田中さんのきれいなアパートも、毎日見られるようになるのだ。
「こんにちわーっ、『不動産ステーション』の若葉です」
玄関で声を掛けたら、奥から見知らぬ女性が出てきた。スタイルがよくて、かなりの美人だ。しかも外国人らしい。
「どうも、こにちわ。グランパ、助けてくれてありがとう」
「ど、どどどどうも。えーっ、田中さんのお孫さん、全然、似てない、いやいや、きれい過ぎるんですけど」
奈々美の大騒ぎに気がついて、田中さんが奥から出てきた。
「ああ、あんたの言ったとおりだったよ。病気のことと、アパートのことを連絡したら、息子が心配してすぐに孫を寄越したんだ」
「よかったですね。けど、こんなにきれいなお孫さんじゃ、自慢しまくらないともったいないですぅ」
「わたしはこんな病人だからな。よければ若葉さん、アンナの相手して遊びに連れていってやってくれ」
「アサクサ、ハラジュク、フジサン行ってみたいです」
最後のフジサンにきめた。初心者でも十分楽しめる富士山コースというものを、奈々美は熟知していたからだ。
「まかせてください」
日本のいいところを、カナダから来た田中さんの孫に教えてあげたい。仕事を抜きにして、純水に奈々美は親切にしてあげたくなっていた。
「いつまでいらっしゃいます?明日は田中さんの荷造り、朝から手伝いますね。少しでも遊ぶ時間を確保したいでしょ」
富士山登山には、大学時代のサークル仲間も呼ぼう。そうすれば皆でわいわい楽しめる。奈々美は久しぶりに、自分がわくわく感を楽しんでいることに気がついた。
営業にとって、やはり1軒でも物件が売れたら、うれしさはしばらく続くものらしい。
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