25年前、僕は生まれた。生まれた時には父はいなかった。母が僕を身ごもったと知って、父は逃げてしまったそうだ。だから、顔は知らない。それに、別に会いたいと思ったことも一度もなかった。
僕は、駅からは遠く、それほどいい家ではないけれど、思い出のある家に育った。
僕が5歳のころ、母が住宅ローンを組んで買ってくれた家。中古住宅で、それほど新しい家ではなかった。平屋で、和室だけしかない。洋室はないし、トイレも汚い。でも、たった二人の家族だったけれど、サンタクロースもいたし、節分には鬼だって出てきた。どれも母だったし、僕にはそれが分かっていたけど、それでも幸せでうれしかった。
小さいながらも、家を買ったのは、僕を一人で育ててきた、母の誇りや意地だったのかもしれない。30年ローンを組んで、死ぬまで頑張って働かなきゃ!と言っていた母が死んで今日で4年目になる。享年50歳、進行性のガンで、ステージ4だった。長年の無理がたたったのだろうと、医者には言われた。12月の寒い冬の日のことだった。
今になっても、僕はその日のことをよく覚えている。それは、僕が21歳のときだった。まだ容体は安定しているからと、その日の朝、母は笑って僕を大学へ送り出してくれた。大事な単位のかかった試験の日だった。
大学でその知らせを受けた時、驚きすぎて、悲しすぎて、その場にうずくまってしまった。母の遺体を前に、男だてらに大泣きした。
そして、僕は結婚をして家族が出来た。家族は一人じゃない。なんと、子供もできたのだ。そう、僕が父親になった。
まさか自分が鬼やサンタクロースになるなんて、思ってもみなかった。出産は無事終わり、妻も子供も無事に生きていた。子供は女の子。すくすく育って、言葉も少ししゃべれるようになった。子供の成長が毎日の喜びになった。自分の子供の寝顔や笑顔を見るのがたまらなく好きになった。
きっと母もそうだったのだろう。僕を一人で育てている中で、僕の成長が、僕のよろこびが、きっと母の喜びだったんだろうと、今になっては思うことができる。
子供を守るためには、親はなんだってできる。そんな気持ちにさせてくれるものなのだ。子供、というものは。
娘が3歳になったあるとき、食事を終え、娘が眠った後、妻が小さく切り出した。
「そろそろ、家がほしくない……?」
「……そうだね」
僕たちはアパートで暮らしている。子供と三人で暮らしていくには手狭になるのは分かっていた。もちろんその時のためにと貯金はしていたし、それなりのお金はあるが、それでは足りない。なんにせよ、家を買うとなると、頭金がいる。
そのとき思い出した。母の最期の言葉のことだ。
「私が死んだら、あの家は、あなたのものだから好きにしなさい」
母と暮らした古い家は、もちろん和室だけじゃなくしたし、トイレもきれいにした。風呂も新しくしてリフォームをしたのだ。最初は僕が住み続けようと思ったが、妻があまり乗り気ではなかったので、賃貸に出していた。使ってくれる人がいるならそれでいいし、どうしても売る決断が出来なかったのだ。
母が身を削って買ってくれた家だ。たくさんの思い出も詰まっている。自分が住んでいなくても、賃貸に出していても、どうしても残しておきたかった。
だけれど、僕は母との思い出の家を売る決断をした。
きっと、「好きにしなさい」という言葉のとおり、母もそれを望んでいるような気がしたからだ。
母の残してくれた家は、思っていたよりも早く売却が決まった。リフォームをしたから状態が良かったのと、今は昔と違って郊外の人気も高いためだった。家を買ってくれたのは、若い母親。なんと、シングルマザーだという。母と同じだ。優しい目をしていたけれど、しっかりとした意志を持った光があった。その人になら、この家を任せることができる。そう思えた瞬間、僕の目から涙が出てきた。
僕は今でも母のことを思い出す。
僕を一人で育ててくれた。病気で早くに亡くなったのがどんなにか無念だったか。もし生きていたら、孫を抱かせてあげたかった。だけど、母はもういない。
「おとうさーん!」
娘の声がする。母の残してくれた家を売った資金で、僕たちは一軒家を買うことにした。中古住宅で、小さいながら幸福の満ち溢れた我が家。
そこは、僕と妻と娘、そして――母の住む「幸せ」だ。