column

家づくりの知識

不動産の売却話 「妻の一言がきっかけ」

家を売る――そう決めた時、自分の中で何かが変わったような気がした。
子供が小さかった時に田舎に買った一軒家。交通の便は悪かったが、地域のつながりが密接で子育てにもいいと思い思い切って引っ越した。
家が完成されていく姿を、小さな子供と一緒に見て、はしゃぎ、年甲斐もなく喜んで、それから数十年。子供も成長し、長女は大学を卒業するのと同時に家から引っ越した。次女ももうそろそろ結婚する。
そんなある冬の日、妻は言った。
「このまま、スーパーもない、雪も深いここに住み続けて、娘たちも出て行ったら、私たちが孤立しそうで怖いの」
「そうは言ってもな」
「本当にいいところよ。思い出もあるわ、でも……」
言い渋る妻を見て、初めて考えたのは、『売る』という二文字だった。

私は、とてつもない抵抗感と戦っていた。田舎だったこともあり、土地も家も幸いそう高くはなかったため、ローンは払い終えている。売ることもできるだろうし、老後のための貯蓄もある。しかし、それこそ老後に都心から田舎に引っ越すような夫婦は見たことがあっても、田舎から都心に引っ越すというのはあまり聞かない。
それよりなにより、この家には思い出が詰まっている。娘たちを育てたのもこの家だし、妻と暮らしてきたのもここだ。毎日車で帰ってくる場所。自分もここでいくつもの思い出を作ってきた。
私はすぐに妻に首を縦には振れなかった。

それから一週間、とりあえず話だけでもと不動産業者を訪ね、償却資産などの相談をした。もちろん額は大きくないもののまあそれなりの金額の提示があった。今は若い人も住みよい土地を求めているし、家を建てるより中古住宅でいいという人も増えているそうだ。
私はまだ迷いを抱えながら、とりあえず見積もりだけでももらうことにして店を後にした。
その夜は次女の帰宅が遅いとのことで、私と妻がふたりで夕食をとった。テレビの音がバックミュージックのようにとても頭に入ってこない。
私は妻に切り出した。
「どうして家を売りたいんだ?」
妻は少しだけ黙ってから、私を見つめて言った。
「子供たちと暮らしてきたこの家は大切な私たちの思い出の場所。でも、二人が出て行って、二人で住むには少し広くなってしまうし、それに、二人での新しいスタートにもなるんじゃないかと思うの」
新しいスタート――妻からもらったその言葉で、私はためしに、こんな田舎の一軒家でもだれか貰い手がいるのか、一度販売してみることにした。あまりにも売れなければやめればいい。そう気負うこともないさ。そう思ってみることにした。
それから私と妻は新しい家を探すことにした。都心部のマンションで新築ではないものの、小奇麗で緑も多い場所やペットも一緒に住めるところ、ためしにと入居もしないのに高層マンションも内覧に行った。妻とそんなことをするのは本当に何十年かぶりで、年甲斐もなく楽しんでいた。しかし心には、まだ、今の家のことがある。ここを手放して、乱暴に扱う人間の手に渡ってしまったら。今までの思い出をすべて壊されてしまうことがあったら。しかしそれはもう私の手を離れてのこと。そんな思いが、頭の片隅から消えることはなかった。

そして、私にとって運命の日は突然にやってくる。
いつものように仕事終え、携帯電話を見ると不動産会社からの着信。私はあわてて折り返しをした。
「もしもし」
「もしもし、お世話になっております。実は、お宅の内覧を希望する夫婦がいらっしゃいまして」
どきっとした。若い夫婦が、この家を見に来る。半ば生返事を返して、電話を切った。
家に帰って妻にそのことを伝えると、いざとなったら妻も緊張するようで、くしゃりと顔をほころばせながら楽しみね、と一言だけ言った。
そして、週末。私たちは家を片付け、できるだけ掃除をして、彼らを待った。火が中天に上る2時過ぎ、ドアベルが音を鳴らした。
「はい」
「内覧に伺ったものなのですが」
「どうぞ」
担当の男性はスーツ姿で、夫婦はラフな格好。奥さんのほうはピンクのロングワンピースが似合う優しそうな女性、旦那さんのほうは青いポロシャツが似合うさわやかな風体。彼らは笑顔で私たちに挨拶をして、家を見て回った。階段に差し掛かると旦那さんのほうが奥さんを気遣うそぶりを見せて、おや、と私は思った。
一通り内覧が済んで、家の中で少し話をすることにした。
妻がにこにこと笑いながら、彼らにお茶を出す。どうやらこの夫婦が気に入ったようだ。私もそうだった。だが、私はどうしても、聞いておきたいことがあった。
「どうしてここの家を買おうと?」
夫婦は顔を見合わせて、ふふ、と小さく笑いあった。
「実は、妻に子供ができまして」
「それはおめでとうございます」
「それで、家を買おうと思ったんですけれど。こちらの住宅の情報を拝見して、家に来て見て、ここがいいなと思ったんです」
「なぜですか?」
旦那さんは快活に返事を返す。奥さんのほうが今度は口を開いた。
「このお家が、お子様とお二人の思い出にあふれた優しいお家だからなんです。私たちも、このおうちに似合うような夫婦になれるように、頑張りたいなと思って」
私の頭によぎったのは、以前妻が言った「新しい二人のスタート」ということば。
この二人にとっては、この家が新しいスタートになるのだ。
それはとても、とても、喜ばしいことに思えた。
私はこの二人になら、この家を任せられるような、まるで三人目の娘を嫁に出すような気分で、二人の申し出を受けることにした。

家を売る――そう決めた時、自分の中で何かが変わったような気がした。
新しいスタート、新しい人生。
いま、私は妻と二人、緑のある、どこか昔の町にも似た、新しい未来に住んでいる。