column

家づくりの知識

不動産の売却話 「涙のわけ」

「さよなら」
それが妻の言った最後の言葉。まあ、正確には元妻、なんだけど。
中学に上がる娘と、俺を残して、他の男を作って去っていった。
夫婦仲がうまくいっていなかったのかと言われれば、ぶっちゃけ俺はそんなことはないと思っている。いや、思っていた。
仕事はそれほどの稼ぎはないが、家のこともしっかり見ていたつもりだし、娘のことも愛していた。もちろん妻のことだって愛していた。
なのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
「お父さん」
「……ああ、ごめん。ぼーっとしてた」
「ううん、いいの」
妻が出ていった時、娘もいた。彼女は娘に目もくれなかった。
新しい男にいったいどんな魅力があるんだか知らないが、娘と確執があったんだかも知らないが、とにかく彼女は俺たちを置いて行ってしまった。
娘も気丈にふるまってはいたが、絶対につらいに決まっている。俺が一人で落ち込むわけにはいかない。リビングのドアのところに立っている娘を振り返って、俺はニコリと笑顔を作って見せた。
「どうした?」
「お父さんに言わなきゃいけないことがあって」
「なんだ」
「実はお母さんね……」

こどもがいたの。

娘の言葉は、俺の空っぽな脳天を貫いて大きな衝撃を与えるのに十分すぎた。
「こども、だって?」
「うん。私、ずっと気づいてたんだ。お母さん、最近体調が悪そうだった。友達に聞いたら、つわりっていうんだって教えてくれた」
「……そう、か」
「たまに家にも来てた気がするし。お父さんのいない日とか、あたしの部活の日とか……」
「そう、なのか、」
「ごめんなさい、お父さん、私……相談もできなくて、」
俺は言葉が詰まって何も言えなかった。娘一人に背負わせていた事実にも心が激しく痛んだし、自分以外の男と子供を作っていたのもショックだった。
妻と結婚した時に、小さいながら二人で過ごす家を買おうと買ったのがここのマンションだった。娘が生まれてからもここにずっと住み続けて、たくさんの思いを育ててきたと、思っていたのに。
なんで、どうして。
そんな思いが心の中を巡っていったが、それ以上に、娘の涙に心が締め付けられた。
俺が、ここでしっかりしなくてどうする。娘が一番、つらかったに決まっているのに。
「お前が謝る必要なんてないだろ。お父さんこそ、ごめんな」
ぽろぽろと涙をこぼす娘を強く抱きしめながら、俺は一緒に泣いた。

離婚届が郵送で届くと、俺は迷わずに判を押して役所に提出した。娘にはしっかり話して、俺がきっちり娘を育てていくと約束した。男親が何を偉そうにと、言われもしたが。それでも俺は、妻に逃げられた自分がかわいそうだと、そしてそれ以上に、娘がかわいそうだと、思いたくなかった。
妻のことは愛していたが、今は娘のことを大切にしたい。
俺は俺の名義だったマンションを売却することにした。
娘の高校進学に合わせて、高校近くに引っ越すのも目的の一つだったが、新しい生活をしたいというのももちろん目的だ。
家はそれほど高くは売れなかったが、少しの元手にはなった。
仕事も続けながら、家事もするのは大変だったが、娘も協力してくれた。俺の帰りの遅い日は食事を作ってくれていたし、洗濯なんかも協力してやった。
そのかいあって、新しい場所での生活はそれなりに幸せなものになった。
「お父さん、行ってきます!」
「おう、いってらっしゃい」
娘の笑顔が、今の俺の支えになっている。

妻が出ていったときに流した俺の涙は、悔しさの涙などではなく、悲しみのそれでもなく、きっと……。
今の、新しい生活のための理由だったのだと、今となってはそう思う。
娘の本物の笑顔のためだったのだと。