column

家づくりの知識

不動産の売却話 「家の売却が繋いだ縁」

我が家をじっくりと眺めて、ゆっくりと息を吐く。
この家には俺の全てが詰まっていると言っていい。北欧テイストの外装に内装、いわゆるスウェーデンハウスというのとはやや異なるが、俺好みのナチュラルな質感で統一してある。
もちろんデザインだけではない。俺がこだわったのは、2階の奥にある防音室だ。建てる際にはかなりの出費となったし、妻も渋い顔をしたのだが、これだけは譲れないとねじ込んだのだ。


それというのも、俺には非常に思い入れのある北欧のマイナーなバンドがあって、彼らの曲を大音量でガンガン流すのが趣味だったからである。
当然、内装に取り入れているデザインの多くは、そのバンドの曲をモチーフにしているのだが、ネットで検索してもほとんど出てこないほどのマイナーさ故か、妻を始めとして誰にも理解してもらえない。
とにかく、階段の手すりにまで口を出して建てたこの家は、文字通り「俺の城」だった。俺はこの家を愛していた。

そんな家を、処分しなければいけなくなった。
遠隔地の支社へ行ってくれと上司に頼まれた以上、断るわけにはいかなかったのだ。俺たち夫婦には子供も介護すべき親もいなかったし、部内で異動するなら俺が最適だというのはわかっていた。
それに、今回の異動は左遷ではない。俺のスキルを買われてのことだった。「頼むよ」と頭を下げる、人の好さそうな部長を前にして、まさか「家を離れたくないので辞退させてください」などとは言えないではないか。

家を売らず、誰かに貸すというのも正直考えたが、戻ってこられるのがいつになるかわからなかった上、見知らぬ誰かに住まわせるという半端なことをするくらいなら、いっそ処分したほうがいいのでは、ということになったのだ。
家を売るために呼んだ仲介業者は、小太りのメガネを掛けた男で、スーツの胸ポケットから覗く黄色いハンカチが印象的だった。

俺がこの家に対する思い入れを熱心に語っても、困ったようにハンカチで汗を拭うばかりで、今ひとつ手応えというものが感じられなかった。本当にわかってくれているのだろうかと、俺は不安になった。
「……わかりました。なんとか探してみます」

一通り俺が語り終えると、そう言って仲介業者は去っていった。その後ろ姿を見送りながら、俺はため息をついた。元々期待していたわけではなかったが、仲介業者はやはり俺の挙げたバンド名にも首をひねるばかりで、知らないだろうことは明らかだった。これで良い買い手など見つかるのだろうか……。
それでも売ること自体は決めていたため、後日提示された査定価格には特に不満もなく、契約を結んで買い手を探してもらうことになった。
引っ越しの日が次第に近づいてきたある日、家を見に行きたいというお客がいる、という連絡が仲介業者から入った。

この時になると、俺のほうでも何となく家を売ることへの覚悟と諦めは完了しつつあって、せめて大事に住んでくれる人だったらいいなあ、と思うばかりだった。
「はじめまして」
「ああ、どうもはじめまして」
仲介業者に伴われてやって来た夫婦と、型通りの挨拶を交わす。相手の男性は俺より少し若いくらいだろうか。快活な印象で、俺は少しホッとした。子供はいないと予め仲介業者から聞いてはいたが、それ以外の細かいことは会ってみるまでわからない。どんな奴が来るのかと心配していたのも確かだった。
「やはり、いい家ですねぇ」
我が家を一瞥して、男性はしみじみとした調子で言った。俺も思わず「でしょう」と頷く。これでケチをつけてくるようなら追い返してやろうかと思っていたが、まずは一安心といったところか。
彼らを伴って家に入る。

玄関の横に置いてあった木彫りの置物を見て、彼らは顔を見合わせ、微笑を浮かべた。これも俺がかつて北欧へ行ったときに買ってきたものだ。そうやって反応してくれると、こっちも嬉しくなる。もちろん細かい薀蓄は抜きにしたものの、自然、家の中の案内にも力が入った。
リビングやキッチン、トイレなど、1階を一通り案内したあと、2階へ上がる。手前から順に見ていってもらって、奥へと向かう。

「ここがその、防音室になっておりましてね」
部屋の前で俺が言うと、既に仲介業者から話は聞いていたのだろう、男性は頷いた。そして口を開く。
「では、ここでいつも――をお聴きに?」
「ええ、……えっ?」
それは本当にさり気なく発された言葉だったので、思わず聞き流してしまいそうになった。
「失礼。今、なんと?」
聞き返すと、男性は笑顔で繰り返した。それは俺が心底惚れ込んだ、あのマイナーバンドの名前だった。

「実は、私も大ファンでしてね」
そんな男性の言葉に、俺は思わず仲介業者の男へと視線を移す。小太りの彼は、黄色いハンカチで頬を拭いながら、まるで悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべたのだった。
下見に来た夫婦の、特に男性のほうとバンドの話で大いに盛り上がり、彼らが帰っていった後。
俺は、残ってもらっていた仲介業者の男に聞いてみた。
「もしかして、わざわざ探してくれたのかい?」
買い手を、という意味ではない。
男は、真面目な顔で俺の顔を真っ直ぐ見てきた。
「僕、いや私は、残念ながらそのバンドについては存じ上げませんでした。ですが、大切なものを手放したくないという気持ちはわかるつもりです」
――だからせめて、この家の良さをわかってくれる買い手を探して差し上げたかった。お客様のためにも、この家のためにも。

男は、静かにそう言った。
こうして俺は、家の売却を通じて、貴重な同好の士と出会うことができた。
大げさな話ではなく、彼らにならこの家を託せると、心から思ったのだ。
今でも、彼とは連絡を取り合う仲だ。
家を売らなければ、こんな縁もなかったことだろう。
そう考えると、どこか胸の中が温かくなるような、そんな不思議な気持ちになるのだった。