それは、酷い雨の日だった。
父が死んだ。
俺たちは三人兄弟で、俺が長男。弟と、妹。
父の死はとても突然だった。車の事故。暗い夜、仕事の帰り、雨で前が見えない中で、父が歩いていた歩道に右折車が突っ込んできたのだ。ほとんど即死だったと、救急隊員が教えてくれた。
俺たちは雨の中、父の搬送された病院へ急いだ。俺たちが到着したときはもう、父の息はなかった。愕然とした。妹の泣く声と、弟の涙ながらにもなだめる声が少し遠くで聞こえるような気がした。まるでこの世界には、俺と、そして父の二人きりのようだった。
父の最後の声も、言葉も聞けずじまいだった。母は俺が小学校の時に亡くなった、病気だった。その時も俺は部活動で、看取ることができなかった。今回もそうだ。俺は悔しくて、悔しくて、涙が止まらなかった。
葬儀の手続きを済ませて、それからまた、三人で涙に暮れた。家族思いの、いい父親だった。俺たちは一生分の涙じゃないかというくらいには泣いた。
たくさんの追悼客が父の葬儀に足を運んでくれた。俺たちは家を離れて住んでいたが、やはり父の人望はすごいものだった。どの人からも、いい人だった、残念な人を亡くしたという言葉をもらった。俺たちは悲しみと誇りと、その両方を感じていた。
滞りなく父の葬儀が終わり、それから、財産分与の話になった。
財産といってもそれほど多くはなく、些かの金銭と、早くに亡くなっていた母の貴金属、あとは――マンションの一室だった。
マンションは、買い上げてあり、もうローンも払い終わっている。この地域では一等地に建っている高層マンションの一室だが、俺たちには帰る家がある。ここに移り住むことはないだろうと、3人の意見は一致した。
「父さんの残した財産だし、いい人に買ってもらった方がいいんじゃない?」
俺も弟も、妹の意見に賛成だった。俺たちはそのほかの財産と一緒に、昔から父の馴染みだという会計士の先生に相談することにした。
法律のことなどなんにもわからない俺たちは、先生のおっしゃることを必死に聞き、相続のやり方、売却の方法、その中でどうしたら平等に、かつ、父のマンションをいい人に販売することができるかを学んだ。それが父への供養になると信じているし、そうなると思っている。
一通りの勉強を終えてから、先生の紹介で、とある不動産会社へ向かった。先生の知り合いの不動産会社だった。
「大変御愁傷様でした」
事情を聞いていた不動産会社の営業さんは開口一番そう言って頭を下げた。優しそうな若い女性で、対応もスムーズだった。一通りの内覧を終えると、そのあと、事務所へ戻って、懇切丁寧に今後のことについて教えてくれた。
先生と営業さんのやりとりを聴きながら、少しだけ、どうして父は先に物件を売らなかったんだろう、と思った。
売却するマンションは父の住んでいたところではないし、考えてみれば、不思議な話だ。
色々な煩雑な手続きをひとつひとつ済ませながら、俺の中でその気持ちは大きくなっていった。
まだ買い手は現れてはいないが、とりあえず一通りの手続きを終えた俺は、先生に問いかけた。
「先生」
「はい、なんでしょうか?」
「どうして父は家を先に売らなかったんでしょうか」
「と、いうと?」
「手続きは面倒だし、相続のことだってあるし、自分が住んでいたわけでもないし……。先にやっていてくれた方が楽だったのにって」
その言葉を聞いて、先生は笑った。ちょっとだけ、父に似た笑顔で。
「学んで欲しかったんじゃないでしょうかね」
「学ぶ、」
「家を売ることの大変さや、苦労や、どんな思いになるかを。身をもって皆様にね。いや、あまりあることじゃないでしょう。家を売るだなんてね」
父の笑顔が、脳裏に浮かぶ。
一生勉強だと、そう言って俺の背中を叩いた、父の笑顔だった。
不動産会社さんの努力の甲斐があって、父の残したマンションはさほど時間をかけず売却することが出来た。売却相手は奇しくも父の昔からの知り合いで、その事実を知ったそのひとはとても喜んでくれた。家が売れて、やっと父は天国でくつろげることだろうと、思う。
それから、兄弟3人で話し合い、売却した金に関しては9割は自分達へ、残りの1割をボランティア団体へ寄付することに決めた。それも、俺たちにとっては初めてのことだった。
日々、勉強。
そう言い続けた父の笑顔を忘れることなく、そして亡くなってからも家を売るという大きな勉強をさせてくれた感謝も忘れることなく、俺たち3人は、またそれぞれの日常へ戻って行く。