私は、不動産販売を行う下っ端営業マンだっだ。入社して2年になるが、家が売れたことは、今のところない。先輩にも罵詈雑言を上司から浴びせられる日々が続いている。
自分でも何で辞めないのか不思議だけれど、それすら面倒くさいのかもしれない。不動産業者はブラックだとよく言われているが、まあ間違ってはいないと思う。
ただ、別にうちの会社がそれほど労働環境が悪いとは言わない。しっかり成果さえあれば評価してくれるのだ。でも、私にはその評価がない。
家を買う客は、ある一種の「理想」を持っている。そして、たいがい、その「理想」と「現実」は何らかが一致しないものなのだ。
たとえば、広さ、予算、駅からの距離、向き、挙げればまだまだある。住宅展示場などで見ることが出来る家は、あくまで理想の姿であって、現実というのはそう甘くはないのだ。
しかし、客の求めるニーズに応じて家を売るのが営業の仕事。妥協点を探り、今ある中でのベターを探す。客に満足してもらえる条件をそろえる。それを提供できて初めて、一人前の営業マンと言えるのだ。
そのイメージを持ってくる客に、私の手腕では、家を売れない。
そんな私に転機が訪れたのは、2年目の秋のことだった。また失敗をしてしまったと落ち込んでいた私に、先輩が声をかけてくれた。私よりもずっと長いキャリアのある女の先輩。不動産の営業で女性は少ないから、気にかけてくれていたようなのだ。
「実は、私のお客様なんだけど、木下さんに担当してもらいたい方がいてね」
「えっ」
「いま、ちょうど私、案件がいっぱいで……。そんなに難しい条件じゃないし、お相手も優しい人みたいだから。一度面談してくれないかな」
「わ、分かりました」
先輩のお客様という事は、私がへましたら先輩に迷惑が掛かって、いよいよ会社にいられなくなくなる。緊張の中、私は渡された資料を基に家へ向かった。
資料によれば、築30年の物件で住んでいるのは老夫婦。優しい人みたいだって言っていたけど、どんな人たちなんだろう。場所はそれなりに郊外で、車でも結構かかってしまった。
すでに前途多難な空気を感じながら、教わった場所へと到着した。
昔ながらのドアベルを鳴らすと、小さなあ足音とともに一人のおばあさんが顔を見せた。
「あら、いらっしゃい。佐々木さんから話は聞いてます」
「あ、初めまして。木下ののかと申します」
「上がってちょうだい」
「帰れ!」
突然の大声に驚いて振り返ると、そこにはおじいさんが。明らかにこの家の人のようだけど、聞き間違いでなければ今……。
「あなた! もう、またそんなこと言って」
「家を売る気なんてない! 帰れ!」
先輩の言葉はおそらく嘘だったようだ。どこが簡単な案件だよ、もう。
「ええと……実は私、一度も家を売れたことがなくって……」
「は?」
「だから、よかったらお話だけでも伺わせてもらえませんか」
それからまたひと悶着あったが、なんとか家に入れてもらう事だけは成功した。出されたお茶を飲みながら、聞いた経緯はこうだ。
長らく一軒家に住んでいたが、自分たちも歳をとったことをきっかけに、息子夫婦が同居を申し込んできたという。同居することには同意したが、それに伴って空き家になる家を売ることには、どうしてもおじいさんは反対だという。
「どうして反対なんですか」
「どうしてって。決まってるだろ。思い出の詰まった大切な家だからだよ」
「そうですよね」
おじいさんの言葉に私は頷いた。その通りだ。
家を売るという事は、本当に大きな決意なんだ。買うのと同じくらいに。売ってしまったものは、買い戻すことはできない。失ったものは戻らない。それをおじいさんは恐れているんだ。
「私が、責任をもって、この家を大切にしてくれる買い手さんを探します。買い手さんをしっかり探して、お二人が気に入らなかったら、売るのをやめればいいんですから」
「……いいのか」
「いいです。もちろん。それともう一つ、提案があるんです」
それから、3カ月がたった。私は仕事がないのをいいことに、この案件だけに時間を割いた。いろいろな人を紹介し、二人の話をよくよく聞いた。
それからまたしばらく経って、やっと買い手に相応しい夫婦を見つけることができた。小さな子供を連れた若い夫婦で、家を大切にして、そして自分たちも、前の持ち主さんに負けない思い出を作っていきたいと、その言葉に揺り動かされたようだった。おじいさんも小さな子供にはつい破顔していたのが、私にはとても印象深かった。
すべての手続きを終え、二人が息子さん夫婦の家に移る日。
「本当に、どうもありがとう」
「いいえ! わたしこそ」
「木下さんに助言貰ってからね。たくさん、写真を撮ったのよ。そしたら、寂しくなくなったわ」
「最初は帰れなんて言ってすまなかったね」
「いいえ……! 新天地でもお元気で!」
いま、私はまだ不動産販売の営業を続けている。やっと家を売れた私に、先輩たちはやっと営業のいろはをたたき込んでくれている。
リスタートの手伝いをする、それに気づかせてくれたあの老夫婦には、今でも感謝の念が絶えることはない。