「お疲れ様。よくやったな」
上司の言葉に俺はほっと安堵のため息をこぼした。
それもそのはずなのだ。俺は随分長い間折衝していた一つの案件を終えたばかり。ねぎらいの言葉の一つでもないとやっていけない。
と、言えど。
安堵も大きいが、達成感も大きい。それほど大きな案件だったのだ。
俺がその案件の担当になったのは、今からちょうど一年前のことだった。
ウチに不動産物件の売却の相談に来たのは、それなりの身なりの初老の男性だった。あまり特徴もなく、月並みな外見。まさかこんなに長い付き合いになるなんて、きっとお互いに思っていなかっただろう。
「実は、アパートを売却したいんです」
「なるほど。とりあえず最初にお話をお伺いいたしますね。具体的にはどのような物件でしょうか」
男性は少し言いよどみながら、頬を掻いて話し始めた。
「アパートで、部屋は10部屋。築20年くらいでしょうかね。まだローンの支払いは残ってまして、古くなったために修繕もしなけりゃならないんで。外壁や屋根の塗装、さびた階段の塗装をしようとしていたんですけれどもね」
「はあ」
売却に来たにしては随分回りくどい。メモを取りながら俺は内心いぶかしみながらその話の続きを促した。
「いや、あたしもね。勤めてた会社を定年退職しましてね。大家業だけで家賃収入を得ながら悠々自適な生活を送る予定だったんですけども。修繕個所も多いしって、どうしようかなって思っていましたらね、実は……」
「はい」
「ある入居者さんがね。賃料の滞納をし始めたんです。会社を首になったそうでして」
「……それはまた、ご苦労でしょうね」
これはいよいよ大変な案件だ。男性も困った様子でため息をこぼす。
「あたしはもうこれ以外に収入がなくなっちゃうからね。入ってくるお金と出て行くお金のバランスが崩れてしまうんですよ。だから、私が持っておくよりも、別の方に管理してもらったほうがいいんじゃないかと思いましてね。売却しようと思うんです」
「それはまあ、いいかと思うんですけども。でも……」
そう、大きな問題がある。
家賃滞納者がいるという事は、次の大家に売るにしても大きなネックになるだろうし、むしろこちらで買い取ることもできない。そもそも収入がないアパートは不動産業者として持てない。
「どうにか、なりませんかねえ」
俺はとにかく、その男性のアパートへ行ってみることにした。
都内の都心部から少し離れたところにあるそれは、住宅街の中にあった。入居率はいいようで、空き部屋はないという。確かに古い印象は受けるが、多少の修繕で見栄えもよくなりそうだ。
「このアパート、いくらで購入しました?」
「八千万くらいですかねえ」
「なるほど」
立地もそこそこ。管理も行き届いている。それなりの値段で買い取ることはできそうだが、どうにもその、滞納していた家賃というのが困る。
大家さんにその男性の入居している部屋のドアをノックしてもらう。
「お邪魔しますよ」
「ああ、大家さん……どうも」
「こんにちは。今日はね、不動産業者さんが一緒なんだよ」
「えっ」
男性宅に入ると、男やもめのようで室内は散らかっていた。ソファに座り、出された冷たい麦茶を飲む。男性に事情を説明すると、男性は困った様子でうつむいた。
「ぼくも、仕事を探しているんです。ずっとこのままではいけないとは思って……ちょっと待ってもらえませんか。仕事を探して、ためている家賃をしっかりお支払いしますから。支払えなければ追い出してください」
口だけではいけない。俺はそのあと、一通の契約書を持っていった。
内容は、「滞納している家賃を1年以外に支払う事」「しっかりした収入源を得ること」「それができない場合は退去すること」。
それに男性は、しっかりと署名をした。
それから、俺は何度もそのアパートに通って男性の様子を確かめたり、大家さんのところへ行ったりした。男性は仕事を探し、少しずつ滞納金を支払っていった。
俺がそのアパートの大家さんに出会ってから1年。それが、ちょうど今日。
家賃の滞納もなくなり、アパートの修繕も終わった。男性を強制退去させることもなく、大家の男性を金銭で苦労させることもなかった。俺はこれが最後かと、少しの感慨をもってアパートを訪ねた。出てきた二人に、一礼をする。
「お疲れ様でした。売却が成立しました」
「ありがとうございます。本当に、長い間、ありがとうございました」
「いえ。よかったです、売却が成立して」
大家さんの笑顔に、入居者の男性の笑顔に、俺は自然に、つられて笑顔になっていた。