ご年配でありながらとても姿勢が良く、所作の綺麗なご婦人。
それが、お客様の第一印象でした。
お子様は独立して遠方におり、ご主人は亡くなられている。
この家を売るのは、そろそろ老人ホームにでも入居しようと考えたから。
それなりに年月の経っている家だから、そこそこの価格で処分できればよい。
家族状況も売却動機も希望価格も、こちらからの質問には明確な答えが返ってきました。
まだまだ元気なご様子に見えたし、実際そうなのでしょう。
言葉遣いも美しく、なんと言うか、こちらの言葉を表面的にではなく、その意図までしっかりと汲んで答えてくださる方でした。同年代の友人たちとの会話では、なかなかこのようにはいきません。
お見積もりのための調査などで伺った際にも丁寧にお茶を出され、こちらがおいとまする際には玄関から外へ出てのお見送りまでしてくださいました。
齢を積み重ねて洗練されるとはこういうことをいうのだろうな、とやり取りをしていて思わされる、彼女はそんなお客様でした。
大きなトラブルもなく売却手続きは順調に進み、気がつけば引渡し当日。
諸々の負担金の精算と残余代金の受領。それと引き換えに鍵の引渡しが行われます。
鍵とは物件の象徴のようなものであり、玄関扉の他に勝手口や門扉にも鍵がついているのであれば、それらもまとめてのお引渡しとなります。
かつて住宅用の分譲地として売り出されたその区画には、同じくらいの年代の家々が建ち並んでいます。
今回のお取引はこの家だけでしたが、今見えている一帯の土地建物も、そのうち売りに出されるのでしょうか。そうして次第に住人が入れ替わっていくのでしょうか。
そんなことを思い、柄にもなくしんみりとした気持ちになっていると、家からお客様がゆっくりと出てきました。
「すみませんねぇ、これで最後だと思うと、つい……」
引渡しの時、最後だからと自分の家を確認したがるお客様はけっこう多いものです。既に書類関係の事務手続きは済んでいましたし、直接の買い取りだったため、今日この場に買主がいるわけでもありません。お客様には、気の済むまでご確認くださいとお伝えしていました。
後は鍵を渡して頂けば、引渡しは完了です。
お客様が差し出してきた鍵を受け取ろうとした時、その鍵がこちらの手に渡る前に、アスファルトの地面へ落ちました。チャリッという微かな音。
「あらいやだ。……齢を取ると、指先が上手く動かなくなって困るわ」
鍵を拾おうと手を伸ばしたこちらを制し、お客様は危なげない動作で身を屈め、ひょいと鍵を拾い上げました。
そしてお客様は差し出したこちらの手を包み込むようにして、今度こそしっかりと鍵を渡してくださったのでした。
鍵の引渡しが終わると、お客様は家を振り返り、深く頭を下げて一礼をしました。
その仕草は最後まで美しく、上げた顔に浮かんだ表情は清々しいものでした。
手渡された小さな鍵は、どこか重みを伴って印象に刻まれたのです。
それから数ヵ月後、再びその家を訪れる機会がありました。
ほどなくして買い手が見つかったその家の、1ヵ月点検に立ち会うためです。
古いながらも綺麗に使われていたため、点検の結果は問題なし。通常、建物というのも人間の身体と同じように、年月が経つとどこかしら不具合が出てくるものですが、きちんと丁寧に扱われていたなら、環境によってはかなり良い状態を維持できるのです。
あのお客様が住まわれていたのだから、当然だという気もしました。
点検を終えて家を出たところで、お隣の奥さんから呼び止められました。
ちょうど家を売りに出したお客様と同年代くらいでしょう。売却の打ち合わせのため頻繁に訪れていたので、お隣の方々とも顔見知りのようになっていたのです。近隣の住人との関係を繋いでおくのもアフターフォローのためには大事なのだと、先輩からは聞いていました。
近寄って挨拶を交わすと、奥さんは家を見て、眩しそうに目を細めました。
「なんか不思議な気持ちね。この家を建ててからずっと、お隣さんといえばあのご一家だったから」
開発分譲地ともなれば、同時期に移り住んだのでしょうから、この辺り一帯は顔見知りのようなものであるはず。実際、奥さんは「もう2、30年の付き合いだったかしらね」と言いました。
自然、話題は元お隣さん、つまり家を売却したお客様のことが中心となりました。
その中で奥さんは、「あそこも、ご主人を突然のご病気で亡くされてから、『家が広くなった』と言ってらしたからねぇ」と呟くように言いました。「それからいくらもしないうちにお引っ越しでしょ。やっぱり、気落ちなさってたんだと思うわ。本当にお優しいご主人で、仲が良かったから」
それを聞いて、少し驚きました。ご主人がお亡くなりになっていることは聞いていたのですが、もっと昔のことだと思っていたからです。
「この家を手放すのって、どんな思いだったのかしらね」
しみじみとした調子で発せられたそんな一言が、胸に沁みました。
家には、その住人の過ごしてきた時間が染み付いています。人生の半分近くをそこで暮らしていたのなら、なおさらです。
そんな家を処分するのだから、いろいろな思いが去来することでしょう。
しっかりとした足取りで、はきはきとした口調で話していらっしゃったお客様。
そんなお客様が、鍵を引渡す時に取り落としてしまったのは、本当にたまたまだったのでしょうか。思えば、あの時の彼女の手は、微かに震えていたようでした。
手渡された時に感じた小さな鍵の重みは、彼女の人生の重みだったのかも知れません。
それでも、家に向かって礼をした後、彼女の見せた顔は清々しいものでした。まるで何かが吹っ切れたかのように。
新たな場所へ住居を移したお客様が、これからの人生を幸せに過ごしていってくれますように。
――そう願わずにはいられませんでした。